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【エッセイ#40】3人の魔女の歌 -老いの名盤紹介

悪声の魅力というのがあります。嗄れていて、声の伸びが無くて、聞き取りづらくても、どこか魅力があり、耳を捉えて離さないような声。例えば、男性で言うなら、ボブ=ディランが挙げられるでしょう。
 
歌手にとって、声は一番の商売道具ですから、当然、美しいまま変わらないようにケアするのが一般的です。そうした努力や鍛錬は、素晴らしいことだと思います。

しかし、人間とは変化する生き物です。昔と変わった声、悪声になった声にもまた、人を捉える魅力があります。そうした変化した声が素晴らしい、3人の女性シンガーを挙げてみましょう。
 



スラップ・ハッピーは70年代に奇妙なアヴァンギャルド・ポップソングの名盤を残した、3人組グループです。ピーター=ブレグヴァッド、アンソニー=ムーアという、二人のユーモア溢れる優れたソングライターが曲を作り、ボーカルのダグマー=クラウゼは驚異的な高音の伸びで、その歌を支えました。

解散後は、クラウゼは、自分で曲を作ったり、クルト=ワイルの歌を歌ったりと活動を続け、1998年にスラップ・ハッピーを3人で再開。アルバム『サ・ヴァ』を発表します。
 
そこでの彼女の声はかつてのアルバムと全く異なる声でした。かつては小鳥のように、可憐かつ硬質な歌声だったのが、退廃的なかすれ声になっていました。

それでも、一曲目『スカード・フォー・ライフ』で、

あなたを思い出せるような何かを残して
一房の髪の毛ではなく
一生残る傷を残して

と、歌いだされた瞬間、その声の虜になってしまいます。

かつて、小鳥でもあり、わがままな少女でもあるようなふてぶてしさと、黙示録を告げる天使のトランペットのような硬質さを備えていた、その名残は、いくつかの高音部で聞こえます。

しかし、年齢を経て高音は厳しくなり、代わりに、低音部の絶妙な表現力を手に入れました。そこにはまだ、凛とした気品とかつてのようなみずみずしさも残っています。

彼女を支える二人のソングライターの曲も、変化しました。かつては飄々としたユーモアと、優美な旋律が素晴らしかったのですが、ここにあるのは、人生を重ねた末の振り返り、後悔、諦念、それでも残る幻想といったものです。

こうした歳月を経た歌声と曲により、流行にも左右されず、輝きを失わない美しいアルバムが生まれたのです。



かつての天使は老いを得て、諦念の美しい老女へと変わりました。ですが、堕天使となって、欲望にまみれた魔女を演じる人もいます。

マリアンヌ=フェイスフルは、1964年に、ローリングストーンズのマネージャーだった、アンドリュー・ルーグ=オールダムに見出されてデビュー。ストーンズに提供された曲や、ブリティッシュ・フォーク、ポップスを歌う清純派歌手として、60年代の「スィンギング・ロンドン」で活躍しました。

本物の貴族の末裔だという、気品ある美しい姿に、落ち着きがあって、はりのある歌声。クラウゼがエキセントリックな天使なら、フェイスフルは、まさに清らかな泉のほとりの乙女、美しきアイドルです。

しかし、そんなアイドルにも別の顔がありました。ストーンズのミック=ジャガーと付き合ううちに、流産、自殺未遂、ドラッグへの耽溺と、完全に堕ちていきます。全裸でオーバードーズ状態のところを警察に見つかるという、信じ難いスキャンダルもあり、歌手としては、終わったかに見えました。



しかし、それから10年後、アルバム『ブロークン・イングリッシュ』によって、カムバック。そして、誰もが驚いたのは、そのおそろしく嗄れた声でした。

ドラッグとアルコール、タバコによって、あの透明感ある歌声はなくなり、まだ30代だというのに、粘り気のある、童話の中に出てくる残忍な魔女のような声になっていました。

そして、歌も、最新のダンスミュージックを取り入れ、アブノーマルな性や爛れた関係を歌う、サバトのBGMのような音楽に変わっていきました。

これは、ある種の堕落なのかもしれません。しかし、彼女の生命力が発揮された音楽でもあり、個人的には、60年代よりも、遥かに輝いているように思えます。

かつての清純な天使の仮面を脱ぎ捨て、魔女の仮面をつけることで、彼女は、自分の中の暗い部分、苦しみを経た年月を経てまだ生きている、その力を一気に音楽にぶつけたように思えるのです。それこそが、この嗄れ声に説得力を与えている理由でしょう。

フェイスフルは、30代から魔女を演じてきたため、寧ろ年を取るにつれて、彼女自身の歌に説得力が増してきたように思えます。2014年の歌手50周年を記念して出された『ロンドンによろしく』は、素晴らしいタイトル、ジャケット、歌が揃ったアルバムです。彼女のおどろおどろしい部分や演劇的な部分は、削ぎ落されて、わざとらしさは消えました。

声にも、諦念と、昔を思い出すような、しみじみとした味わいも出てきました。魔女は、どれだけ後ろ指をさされようと、生き延びることによって、本当の人間としての品格と、老いを手に入れたのでしょう。


欲望に満ちた魔女の老いもあれば、自分自身を信じて、一人の人間として生きてきた女性が得る、落ち着いた老いもあります。

ジョニ=ミッチェルは、1968年にアルバムデビュー。美しいソプラノボイスで自分の感じたことを私小説的につづる、女性シンガーソングライターの先駆けになった人です。デビューアルバムの最後の曲、『カクタス・ツリー』は、「彼女は自由になることに忙しい」という、この後のキャリアを象徴する曲です。

そして、多くのミュージシャンと浮名を流しながら、『青春の光と影』や『サークル・ゲーム』等名曲を創って歌っていきます。

80年代以降は、当時の最新の音楽を取り入れようとして、やや苦闘したりもします。しかし、ゼロ年代になると、老いて、キャリアの総決算をするような作品を発表します。その頂点が、2002年の『トラヴェローグ』。かつての名曲を、美しいジャズ・オーケストラの演奏にのせて、噛みしめるように歌います。

そこには、かつての自分の主張をイノセントに伝えていた、魔法のようなソプラノボイスはありません。長年の喫煙で、低いアルトの声になった彼女は、しかし、ヴェルヴェットのような柔らかい質感と、ある種の優しい暖かみを手に入れました。それが、年月を経た名曲に、美しい力を与えているのです。

近年は難病のため、表舞台からは引退していましたが、2022年にフォーク・フェスティバルにライブ出演して、喝采を浴びました。まだ声自体は凛としているものの、かつての完璧な歌声はなくなりました。確実に彼女にも最後の時が来ています。しかし、歩けないまま、観客の前で微笑んで歌う彼女の姿は、一人の人間として美しい姿でした。


3人の、ある種の魔性の歌声を持ったシンガーを見てきました。彼女たちは、老いることによって、よりその魔性を発揮して、人を離れた魔女のような状態になりました。

魔女というのは、中世、人の道から外れていると言われて迫害されてきました。魔女は、かつての美しさを失いつつ、それでも残り香のようにそのきらめきが残っているからこそ、ある種のおそろしさがありました。それゆえに、迫害されたのでしょう。

この3人の歌手もその生き方によって批判されることもありました。ドラッグ、アルコール、タバコ等、荒んだ生き方でかつての美も失いました。

でも、彼女たちは、自分自身に忠実に不健康であることによって、誰よりも健康的に生きています。その前向きな自分自身でいる姿勢が、老いの説得力を与えています。

そうした、自由な生き方という意味で、この3人は美しき現代の魔女であり、彼女たちの音楽を吸収するのは、その魔力によって、私たちが生きる力を得ていく、素晴らしい体験なのでしょう。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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