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饗宴を建築する -ヴェロネーゼの絵画について

絵画史上には、一般的に知名度は低くても、素晴らしい技巧を持ち、しかも多くの後世の画家に影響を与えた存在がいます。

そんな画家の最右翼は、ヴェロネーゼではないでしょうか。
 
当時から巨匠ティツィアーノの後継者と謳われ、集団画や壁画を残した画家であり、ある種の普遍的な斬新さを持つ、驚くべき画家です。


ヴェロネーゼ『レヴィ家の饗宴』
ヴェネツィア・アカデミア美術館蔵



 
パオロ・ヴェロネーゼは、1528年、イタリア、ヴェローナ生まれ。父親は石工であり、幼い頃から地方画家アントニオ・バディーレの元で修業していたところ、当時の一流建築家、サンミケーリにセンスを評価され、彼の元で、屋敷の装飾を手掛けたりしています。

ヴェロネーゼ自画像


25歳の時ヴェネツィアに移り、パトロンを得て、サン・セバスティアーノ教会やドゥカーレ宮殿やの天井画を手掛け、一躍有名に。

その後の人生は順風満帆で、天井画や、『カナの婚礼』、『レヴィ家の饗宴』のような、大規模な壁画を手掛けます。
 
世渡りも巧みでした。ティツィアーノの『最後の晩餐』が焼けた後に描いた壁画が、あまりにも豪華で、衣装は当時のヴェネツィア風。しかも聖書と関係がない人物まで書き込んでしまったため、教会に問題視され、異端審問会に召喚されます。
 
その時も、描き直すのではなく、タイトルを『レヴィ家の饗宴』にして風俗画にしてしまうことで切り抜けています。頭の回転が速く、パトロンの信頼も、大衆の人気もあったゆえでしょう。工房も構えて多くの弟子をとり、自身の画風を後世に伝えています。




 
ヴェロネーゼの特徴は何と言っても、驚くほどの人数の集団画でしょう。

『カナの婚礼』やレヴィ家の饗宴』の素晴らしさは、多くの人数が入り乱れているのに、全体は、ごちゃっとした感じがなく、華やいだ空気に溢れていることです。

ヴェロネーゼ『カナの婚礼』
ルーブル美術館蔵



勿論、そこには、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロや、ラファエロといった初期のルネサンス絵画の影響が、間違いなくあります(3人の中で一番年下のラファエロより、さらに40年くらい後の人です)。

では彼らとの違いは何でしょうか。
 
例えば、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』や、ミケランジェロの『最後の審判』、ラファエロの『アテナイの学堂』等、教科書にも出てくる有名な集団画・祭壇画と見比べてみるとどうでしょう。

ラファエロ『アテナイの学堂』
バチカン宮殿蔵



いずれも名画ですが、どこか、構図で綺麗にまとまっている感じがあります。

最も人数が多く、大規模なミケランジェロの天井画ですら、いや、おそらくは大規模だからこそ、セクションに別れて、塊ごとにうまく組み合わされているのが分かります。ダ・ヴィンチの壁画の緊密な人物の組み合わせはいうまでもありません。


ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院蔵


それに比べて、ヴェロネーゼは、あまり構図ということを感じさせない、人々が、ブロック化していない印象があります。



 それはなぜかというと、まずはとにかく、人が充満していることです。

左右で重なり合い、前後に身体を重ねながら後ろの顔を見せることで、人がぎっしり詰まっている感じがある。それが、構図の跡を人々に印象付けない効果があります。
 
そして、人の充満と併せて、色が見事に散らばっています。

赤・黄・緑・青の同じ色が決して重ならないように、それでいて補色同士を隣り合わせたり、微妙に色調を変えた色を少し離して置いています。

そうすることで、画面のどの部分でも、ある一つの色に統一されたような感覚を抱かせないようにしています。

ヴェロネーゼ『カナの婚礼』再掲


 
すると、不思議なことに、構図は消えて、人々のざわめきが立ち上ってくるかのような印象が生まれています。ダ・ヴィンチらの絵では凍り付いていた「時」が、緩やかに溶けているような印象があるのです。


  
ヴェロネーゼへの称賛は、同時代を遥かに超え、遠く20世紀まで及んでいます。例えば、セザンヌは、友人のジョシュアン・ガスケとルーブル美術館に行った時に『カナの婚礼』を見て、このように語っています(ガスケ『セザンヌ』)。
 

・これこそ絵画だ。部分も全体も、もろもろのボリュームも、色価も、構成も、戦慄も、全てがここに入っている。
 
・大きな色の波動しか知覚されないでしょう。虹色の輝き、沢山の色、色の宝庫。絵はまずわれわれにこれを与えてくれなければならないんだ。(中略)こういう色調は全部、血の中に流れ込んでくるようだ。そうでしょう。すっかり元気がみなぎってくる。真の世界に生まれ変わるのだ。
  
ヴェロネーゼとはね、色彩の中の思考の充満なのだ。

與謝野文子訳


本当はこの抜粋どころではない、もの凄く長い語りが続くのですが、20世紀絵画の源流となったセザンヌの言う「色彩の思考」とは、まさにヴェロネーゼの特徴を上手く表している気がします。


 
つまり、色彩そのものが、構図から逃れているような感触があるということ。色彩が並んで疑似的な空間をつくるような建築的な絵画とは、別のつくりのような質感があるということです。
 
それはあるいは、「饗宴を建築する」絵画と言ってもよいかもしれません。「饗宴」とは、多くの人がくつろいで、楽しんでいる時間です。そうした時間を二次元の空間に閉じ込めるのは、とても難しい。
 
しかし、人々を充満させ、色を絶妙にちりばめ、空間を曖昧にすることで、色がただ乱舞している様を鑑賞者は味わう。そうすることで、「場所」が消え、「時」が表れる。

「時」をデザインし、多くの人の憩いを組み立てていく、一つの「時の建築」と言えるかもしれません。



それは、芸術のみならず、現代の色々なエンタメも含めた絵師の人にもきっと、新鮮に映るはずです。永遠に若い「時の建築」である饗宴絵画として、ヴェロネーゼの作品は、まだまだ発見されるべき、未来の絵画と言えると思っています。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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