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【レビュー・批評#6】 ゴッホの夢見た色彩 ー『ゴッホと静物画』展感想

先日、新宿のSOMPO美術館で現在開催中の『ゴッホと静物画 伝統から革新へ』展に行ってきました(SOMPO美術館では1/21(日)まで)。ゴッホの絵画の中でも、花を中心とした静物画に焦点をあてたものです。個人的には、想像していた以上に、興味深い展覧会でした。


 17・18世紀の先人から、同世代の19世紀画家、そして後輩の20世紀画家に至るまでの、静物画の作品が並べられています。その中にゴッホを位置づけることで、ゴッホの受けた影響、後世に与えた影響を浮かび上がらせるというもの。そして、その試みは成功していると思います。
 
というのも、改めて、ゴッホが特異な画家だというのが、よく分かるからです。絵画史的にはセザンヌやゴーギャンと並んで、「後期印象派」とも、大雑把に言われますが、ちょっとそこには留まれない、「変な」画家だというのを再認識しました。


 
どういう点が「変」なのか。まず、この展覧会で強く思い出されたのは、彼がオランダ生まれのオランダ人であったことです。つまり、彼のバックグラウンドには、17世紀に最盛期を迎えたオランダ静物画のバックグラウンドが確かにあるということです。

ピーテル・クラース『ヴァニタス』
クレラー=ミュラー美術館


 もっとも、ほぼ写真ではないかと思うレベルの、細密画のような17世紀オランダ静物画と、ゴッホの、印象派の影響を受けた粗い筆致の静物画は、一見全く違います。しかし、並べられると、共通点も見えてきます。
 
それは、背景です。静物を引き立てる背景の、深い黒のモノトーン。これは、他のフランス人の印象派には、実は欠けているように思えました。

会場にはルノワールやピサロ、セザンヌらの静物画もありました。しかし、彼らの絵画は、クラースやシモンズといった、17世紀のオランダ静物画画家たちのそっけないほどの暗い背景と違って、背景は、ごく普通の室内か、暗めでも柔らかい色彩のトーンと筆致で、花々や静物と調和しています。

セザンヌ『リンゴとナプキン』
SOMPO美術館蔵
ゴッホ『麦わら帽のある静物』
クレラー=ミュラー美術館蔵

 
勿論、黒の扱いに長けた画家なら、ベラスケスやクールベがいますし、当然ゴッホも知っていました。しかし、自分の作品を創ろうとするときに、同郷の先人たちの静物画と一緒に、その深い黒のトーンも、無意識に吸収していたように思えるのです。
 
そうでなければ、『馬鈴薯を食べる人々』のような、光源が一つだけの、ほぼ真っ暗な名作は、そもそも発想に思い浮かばないでしょう。或いは、レンブラントも含めて、深い闇と強烈な光は、ある種オランダの風土や国民性に結びついているのかもしれない、とも思わせます。

ゴッホ『『馬鈴薯を食べる人々』
ゴッホ美術館蔵
※今回の展覧会出品作品ではない


そして改めて思うのが、「後期印象派」と言われる画家たちの動きです。本家の印象派と違い、画風では全く似ていない彼らですが、一つの共通点は確かにあります。それは、パリで生まれた印象派に、外部の血が入って、パリから離れていく過程だった、ということです。
 
以前書いたように、初期の主要な印象派はほぼ全員、パリっ子です。彼らの初期作品の題材は、都会や郊外の、ブルジョワやレジャーを楽しむ人々が中心でした。

それが、後期印象派たちになると、セザンヌのプロヴァンス、ゴーギャンのブルターニュやタヒチ、ゴッホのアルルと、彼らは印象派に影響を受けながらも、都市生活に背を向けて、地方へと向かいます。それは、都会の最新流行の芸術運動だった印象派が、どんどん形を変えて、新しい潮流となっていく動きでもありました。



そして、ゴッホが独特な画風になったのは、後期印象派の中で、唯一印象派展に参加しなかったからではないでしょうか。ゴーギャンは、第4~第6回と第8回に参加しています。セザンヌも実は、初期の第1回と第3回に参加しています。そして、後期印象派に挙げられることもある、点描で有名なスーラも第8回に参加していました。
 
ゴッホが、牧師になろうとして失敗したりして、ようやくパリに出てきて、画業に本格的に打ち込むようになった1886年頃には、印象派は既に一定の地位を確立していました。先に挙げたスーラの点描が話題になった最後の第8回印象派展が1886年ですから、運動自体がもう収束しています。

ゴーギャン
『海辺に立つブルターニュの二少女』
国立西洋美術館蔵
※今回の展覧会出品作品ではない


 セザンヌやゴーギャンが、印象派から離れつつ、後年の作品はやや薄塗りの、鮮やかな色彩になったのに対し、ゴッホは、後年になればなるほど、どんどん厚塗りで、色彩設計は鮮やかというよりどぎついものになっていきます。
 
それは、印象派と一定の距離があったまま染まり切らず、オランダ静物画(実物を見るとよく分かりますが、精緻かつ結構な厚塗りです)という豊かな背景を持っていたゴッホだからこそできる、独自の作風だったのではないでしょうか。


 
そして、こうしたことを踏まえつつ、『ゴッホと静物画』展において、ゴッホや同時代の画家たちの花を描いた静物画を観るからこそ、その最後の方で眼に飛び込んでくる『ひまわり』が、あまりにも強烈で、特異なものとして認識されます。

ゴッホ『ひまわり』
SOMPO美術館

『ひまわり』は、それまでのゴッホにあった、オランダ静物画風の黒い背景や、印象派風の調和のとれた花々を全て壊しています。黄色のヒマワリに、色調の違うド派手な黄色の背景。花びらと花芯は、グロテスクなまでに厚塗りで、ふんわりした印象派の花束の光景とは対照的です。



つまり、ここで、ゴッホは一歩上に突き抜けたのだと思います。伝統と流行の特異な混交から、ほんの一滴の薬品を垂らすことで、化学反応が起きて、一気に新しい芸術が誕生したということです。それゆえに、この作品がゴッホの代表作となり、特異な色彩感覚の先駆けとして、20世紀以降の画家にも影響を与えたのでしょう。
 
その一滴とは、南仏アルルの明るい光だったのか、浮世絵だったのか、或いは彼の精神の病だったのか。それは、分かりません。おそらくは、そうした全てが合わさって、作品という結晶になったと言うべきなのでしょう。
 
そして、ゴッホがおそらくはずっと夢見ていたであろう、この強烈な色彩が、ほんの少しのきっかけによって、キャンバスに溢れ出したこともまた、確かに分かります。



私たちが今を生きるということは、常に過去が背後にあります。どんなに特異な芸術、いや、どんな人であろうと、必ず時代背景があり、時代の子でもあります。
 
ですが、その文脈で語り切れない何か、個人の生きた中にしかない何かがあって、それが、しばしば芸術を変え、人類のものの見方や考え方を永遠に変えることがあります。
 
『ゴッホと静物画』展は、そうした芸術家の一人であるゴッホを、分かりやすく歴史の流れに置きつつ、そこからの逸脱も認識できる、良い展覧会だったと言えると思います。機会がありましたら、是非ご覧になっていただければと思います。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のレビューでまたお会いしましょう。


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