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【エッセイ#7】ソール=ライターと印象派 、ジャンルを超えた共鳴

アメリカの写真家、ソール=ライターの展覧会を観た時に興味深く思ったのは、彼は画家としてもかなりの量の油彩画を残していたことでした。また、彼はフランスの画家、ピエール=ボナールを称賛しています。雑誌で写真の仕事(彼は雑誌『ELLE』や『ハーパーズ・バザー』のファッションカメラマンでもありました)をするよりも、ボナールら画家の作品の前にいた方が勉強になる、と発言して、雑誌の編集長を呆れさせたというエピソードもあります。

ソール=ライター 『ジェイ』 ©Saul Leiter Estate
人物の親密さはボナールを思わせるが、暗い質感は独自のもの

ピエール=ボナールは、ポスト印象派とも言われる『ナビ派』の代表的な画家です。浮世絵や屏風のような日本美術に強く影響を受け、平面的な色使いをして、入浴する妻のようなごく親密な室内画を多く残しています。そのボナールは、1880年代から活動していますから、印象派の影響を強く受けています。特に、セザンヌの静物画には明らかに構成を学んでいますし、ルノワールのアトリエを訪ねたりもしています。 

そう考えると、ボナールに影響を受けたライターは、印象派の孫弟子、ということになります。この事実を知った時、私の中で、ライターの写真がよりはっきりと焦点を結んだように思えました。彼はある意味、印象派と似ている、印象派直系の芸術家だ、と感じたからです。
 
それは何なのかと言えば、ドラマを排した、都市生活者の感覚とでも言えるでしょうか。印象派は、1874年のパリでの第一回印象派展で生まれ、主要な画家たちはパリ育ちでした(シスレー、ドガはパリ生まれ。ルノワール、モリゾは幼少期にパリに移住。モネ、ピサロ、セザンヌは画家になるため若くしてパリに上京)。

19世紀半ばのパリでは、知事オスマンの都市計画により、中世の不衛生な街並みが一掃され、大きな通りと鉄道網が整備されました。そして、産業革命によって、19世紀ヨーロッパの首都と呼ばれるほどに高度に発展した都市となりました。彼らはその都市の息吹を感じながら、新しい感性で絵画の修業に励んだ画家たちでした。

クロード=モネ 『サン・ラザール駅』オルセー美術館蔵
列車により田舎や郊外へのアクセスも容易になった。
舟遊びやピクニックといった、印象派のモチーフにも繋がる

印象派の画家たちは、明らかにパリという近代都市でしか生まれ得ないものでした。その特徴は、勿論多角的に論じることができますが、おそらく一言で言い表すなら、「決して幻想を抱かない」芸術だということでしょう。

その見た目の特徴は有名な、光の効果を生かした、ぼんやりとした筆致です。しかし、光の効果がレンブラントのようにドラマを生むことはありません。そして題材は、神話を排して、街路や郊外の人々の様子、風景画がメインです。モネの睡蓮やセザンヌのサント・ヴィクトワール山のように、後年パリを離れても、彼らは自然に幻想を投影しませんでした。
 
つまり、都市生活者とは醒めているのです。夜半に風になびいている木の葉のざわめきを聞いて胸騒ぎを覚えたり、地元の人たちと濃密に交流したりしません。深夜、街中が寝静まってしんとした街路を歩き、一晩中空いているバーやファーストフード店でBGMを聞きながら一人夜明けを待って、コーヒーを飲んでいる。そんな場所で幻想は抱きようがありませんし、田舎のような濃密な人間性のドラマは生まれにくいです。
 
ライターにもそういう感覚があるように思えます。街を歩いている人々を背後から見ているような感覚。決して彼らの人生に関わらず、匿名のまま自分も雑踏の一人として歩いて、ある時ふとシャッターをきってしまう、そんな感覚です。それは題材だけではなく、彼の技法にもかかわってきます。
 
写真家というのは、今ある決定的瞬間をとらえようとする報道系か、身近なものを大量に捉えようとするスナップショット系か、徹底的に撮影対象と効果を作り込む審美系かに分かれると思います。しかし、ライターはどこからも浮いている感覚があります。
 
都会の風景や人々をスナップショット的に切り取る写真家は多いですが、ライターは、ガラスの反射を生かした複雑な画面など、スナップショット以上に、明らかに作り込む傾向があります。しかし、美的なファッションピンナップとしては、ナマの感覚がありすぎている。写真家としては、実はちょっと変わったタイプのように思えます。

ソール・ライター『無題』 ©Saul Leiter Estate
ガラス越しの観葉植物の映り込みが人物に重なる。
雑誌のファッション写真でも、
こうした映り込みをモデルに重ねていることがある

つまり、彼は現実をそのままとらえようとするのではなく、印象派の絵画のように、ある種のフィルターを通して捕まえたいという傾向があるということです。
 
なぜ、印象派の画家たちがあれほどぼかした筆致や光の効果に惹かれて画面に刻み付けたかと言えば、そうした光をヴェールにして、現実を浮遊させたい、という無意識があったのではないでしょうか。

それは、神話の光を信じることができず、都会の孤独さに耐えている生活者に向けた、現実を美しく演出するためのひとつの装置と言えるかもしれません。そうした部分が現代人の琴線にも触れて、印象派は現在これ程人気なのでしょう。

ピエール=オーギュスト・ルノワール『ぶらんこ』オルセー美術館蔵
一瞬を輝かせる、仄かな光のヴェール

しかし、当然、写真にはそんな効果は出せません。光はどうあってもシャープで、ふわっとしたあの筆致を完全に再現することはできない。であるなら、ガラスの反射を使って、自分なりのヴェールを作ってしまえばいい。表情は隠しつつ、ピントは合っていても、光の反射や複雑な構図で、視線の場所を彷徨わせる。そこに色鮮やかなアクセントをいれれば、印象派のような、都会の人々が安らぎを感じる浮遊感を得られる。

ライターが印象派と共鳴するのは、印象派の表面的な効果の奥にある、芸術で本当に伝えたいものに、自分なりの技法で到達したからのように思われるのです。それこそが、印象派と同様に、彼の写真に心惹かれる人が多い理由ではないでしょうか。

ソール・ライター『帽子』1960年頃 ©Saul Leiter Estate
結露のガラスがヴェールとなる
黄色の車、赤のアクセントが美しい

個人的に、印象派の影響を受けた画家の作品を見ても、「ああ、印象派っぽいな」ぐらいにしか思わないことが案外多いのですが、ライターの作品には確かに印象派の刻印があります。絵画と写真のように、芸術の媒体が違う場合、どんなに憧れても、その作品をそのまま表面的に模倣することができない。素材と格闘しなければいけない。しかし、その時にこそ、創造的な、新しい独自の芸術が生まれます。

芸術に限らず、自分独自の表現を身に着けたいなら、沢山の多様な体験や作品を吸収しなさい、とはよく言われることです。それはつまり、ライターのように、ジャンル間の垣根を乗り越えようとするときに、創造の力を得るということを示しているのでしょう。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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