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灰色の朝に祈る -ジェズアルドの宗教音楽

以前、「人を殺したことのある大芸術家」として、画家カラヴァッジョを取り上げました。もう一人、私が思い浮かぶ芸術家は、16世紀ルネサンスの音楽家、カルロ・ジェズアルドです。


 もっとも、両者の生きた道筋と芸術は全く異なります。カラヴァッジョの場合、度重なる愚行の果ての襲撃であり、作品の価値はさておき、その生涯の罪と愚かさに、同情の余地は全くありません。
 
しかし、ジェズアルドの場合、その罪は、様々な意味で、一考する部分があるように思えます。そして、カラヴァッジョが、彼の愚行とは一見関係のない、崇高でパワフルな芸術を築き上げたのに対し、ジェズアルドは、その罪悪感の刻印が、色濃く作品に出ている気がするのです。
 



カルロ・ジェズアルドは、1566年、イタリアのナポリ王国で、超のつく名門貴族の次男として生まれました。家に出入りする優れた音楽家たちの下、リュートや歌、作曲を学びつつ、当初は聖職者を目指します。


カルロ・ジェズアルド


 
しかし、18歳の時、長兄が急死し、家督相続者となります。そのため、政略的な意味を込めて、名門貴族の娘、マリア・ダヴァロスと結婚することに。

彼女は、王国一との呼び声高い、絶世の美女でしたが、身持ちが極端に悪く、既に二回の結婚歴がありました。彼女は結婚後も、別の男性と公然と浮気を繰り返しました。
 
そして、結婚から4年後、とうとう、ジェズアルドは、配下の者と共に、妻と愛人の不義の場に踏み込み、2人を斬殺します。



当時の通念では、こうした不義に対する制裁というか復讐は、当然のこととして受け止められ、罪で捕まることはありませんでした。
 
しかし、その場に部下を連れて行ったこと、そして、出生の疑いをかけた子供まで殺してしまったことから、世間の同情は妻と愛人の方に集まることに。当時の詩人たちもこぞって取り上げるスキャンダルとなり、ジェズアルドは城に謹慎することになります。




 
4年後、フェラーラに向かい、名門貴族の娘と再婚。文化水準が高かったこの街での式には当時の大作曲家たちが出席していました。

宮廷で彼らと知り合い、ジェズアルドは「マドリガーレ」という、複雑で技巧的な重唱音楽を身に付けます。創作意欲が一気に高まりマドリガーレ集を4編も出版しています。
 
それから2年後、ナポリに戻ると、以前のように城に籠って、ひたすら作曲をする日々に。マドリガーレだけでなく、宗教音楽も手掛け、出版しています。
 
しかし、罪の意識は大きかったのか、妻との仲は上手くいかず、奇行も目立つようになり、1613年、47歳の生涯を終えています。




  
ジェズアルドの時代は、ルネサンス期であり、バッハやヘンデルのようないわゆるクラシック音楽の始祖が出てくる前の音楽です。
 
それゆえ、クラシックのような分かりやすいハーモニーはありません。彼の音楽は、教会で歌われる無伴奏の讃美歌を、より複雑にしたものと考えると、イメージしやすいかと思います。
 
しかし、例えば彼より30年ほど前のパレストリーナのような、今でも癒し音楽になるような、落ち着く宗教音楽とはどこか違います。

(パレストリーナ。安らぎの宗教音楽)



 
無伴奏の重唱なのに、声が重なって、ハーモニーが創られる直前に、不意に驚くべき逸脱によってほどけてしまう。一緒に歌う明るい喜びの表現のようなものは、ほぼ皆無です。かといって、現代音楽のような不快な不協和音もなく、脱臼したままのような音の重なりが続く。
 
ずっと聞いていると濃い霧の中をさまよっているような気分になります。不明瞭な「音の塊」としか言いようのないものが、大気を漂って、身体に入り込んでくるような印象を受けるのです。

(ジェズアルドのマドリガーレ)



 
こんな彼の音楽の特徴が、最もよく表れた作品集があります。ジャズ・現代音楽のレーベルECMから91年に出た、ヒリヤード・アンサンブルによる宗教音楽集『テネブレ』です。
 
レスポンソリウムという、修道士たちが聖週間の朝に歌うための重唱曲集で、歌詞は全て聖書の文言を抜粋して組み合わされています。それゆえ、歌詞が自由なマドリガーレのような、時に奇矯な逸脱は、あまりありません。
 
しかし、だからなのか、どこか痛みと情念を押し殺して、声をひたすら重ね合わせているような、異様にどす黒く、重たい印象があります。

ヒリヤード・アンサンブルは全員男性であり、高音と低音が連なって、決してハーモニーも輪唱の快感も生み出さない異様さが強調されます。
 
そんな展開で、一曲の終わりだけは讃美歌風であり、終わった安堵感がほんのりと出てくる。北欧のスタジオを使って録音されるECMレーベル特有の、どこか濡れているのに澄んだ音響が、その余韻を増幅しているのです。




 
おそらく、ジェズアルドは、どこか罪に押しつぶされてしまうような、弱さを抱えていたように思えます。運命に翻弄され、望んでもいない結婚の挙句、浮気で笑いものにされる。名誉を取り戻そうと殺しても、世間から遠ざかるだけ。

でも、音楽だけは自分を裏切らない。
 
彼がひたすら複雑な音楽を創るその過程は、創作の喜びでも、世間への復讐でもなく、もはや音楽を作曲している時だけは、酷い自分の運命を忘れられるといったような、全てに背を向けたような印象があります。

それゆえでしょうか、彼の音楽は、痛ましく、宗教的な恍惚もあまりないはずなのに、厳粛で、どんな讃美歌よりも、宗教的に聞こえる瞬間があります。





先の『テネブレ』のCDのライナーノーツには、ドイツの詩人パウル・ツェランの詩が引かれています。

私たちは近くにいます、主よ
近くに、そして手に掴めるほどに


この詩は、神は近くにいるはずなのに、決して救われないことを歌ったようにも思えます。それは、全てに背を向けたジェズアルドの生涯を表していると同時に、その特異な音楽を一言で説明しているようにも思えます。

それは、灰色に曇って日の差さない静寂な朝に、一人で何かに祈る、孤独な人のための音楽と言えるのかもしれません。

華やかでも癒されるでもない、ただ自分と向き合い、自分以上の大きなものに祈るための音楽。それもまた、音楽の一つのかたちなのでしょう。機会がありましたら、一度、その重みを体感していただくのも、忘れられない体験になるかと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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