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惣菜屋の太ったおばちゃん

「惣菜屋の太ったおばちゃん」

今の時代は「市場(いちば)」というものがどれほど残っているのかわからないが、オレが生まれ育った街には、当時は市場がたくさんあった。

港町だったという理由も大きいだろう。もちろん、駅前にスーパーはあったが、子供の頃は、市場はとても賑わっていて、オレは母親と一緒に、よく買い物に付き合わされた。

細い路地の両側に、びっしりと小さなお店が並び、色んな掛け声や、匂いや、熱があった。

魚屋、八百屋、肉屋、乾物屋、惣菜屋、花屋、和菓子屋、ケーキ屋、靴屋、服屋。そこに行けばなんでも揃う。そんな場所だ。

オレが子供の頃なので、1980年代。まだコンビニもほとんどなかったし、大型スーパーもホームセンターもなかった時代だ。

魚屋に行くために、よくその市場に行った。敷き詰められた氷の上に、ずらりと並んだ魚たち。文字通り死んだ魚の目で、どこを見ているのわからない鯛の目玉。イカのぬるっとした黒光した光沢のある体。ウニのトゲ や、まだ動いている帆立とか。オレは親や魚屋さんが見てないのを見計らって、指で突いたりした。

子供ながらに市場は不思議なところだった。見るからに清潔感を欠いたお店も多く、何年もそこに置きっぱなしのように見える“婦人服売り場”や“靴屋”や、賞味期限の切れたお菓子が売ってる店もあった。

我が家は街中だったので、駅前にはそれなりに時代の流行を反映したものもたくさんあったが、市場は当時すでに幼いオレの目に、どこか『時代遅れ』なものとして映っていた。

お弁当やお惣菜を売っているお店がいくつかあったが、いつも行く魚屋さんの斜め前にもお惣菜屋はあった。その店の前を通ると、いつも旨そうな匂いが漂っていた。

しかし、スーパーの惣菜売り場などと比べると、明らかに古く、お店の食事、というより“友達の家の晩ご飯”のような雰囲気だった。

ホウロウのバッドの上に、様々なおかずがむき出しで並んでいる。ガラスケースの中にあるものもあったが、その上に、無造作に置かれていた惣菜も多かった。白いホウロウのバットはかなり年季が入っていて、所々、角から錆び付いた金属を覗かせていた。

ヒジキと大豆の煮物とか、イカと大根の煮物や、家庭で見るような料理が多かったと思う。中には、袋詰めにされた漬物とかも売っていた。もちろんコロッケやアジフライや唐揚げなどの、鉄板の、大抵はどこで食べても美味しいおかずもあった。

しかしそれでも、ぶら下がった裸電球の下で、それらはとても地味な色合いに見えた。スーパーの食品売り場の明るさや華やかな色合いも知っていたので(しかもそちらは清潔そうだった)、薄暗い光と、おかずの色合いのせいか、見た目で損をしていると、子供のオレにもそう思えた。

そこにはいつも笑顔の、太ったおばちゃんがいた。他にもいろんなおばちゃんたちが働いていたが、その太ったおばちゃんを見ない日はなかった。

お菓子売り場もあったから、オレはしょっちゅう市場に行ったが、毎日、どんな時間でもそのおばちゃんはいて、奥で作られた惣菜を店頭に並べて、笑顔で接客していた。

しかし子供の頃から、その店の前を通ると、なんとも言えない気持ちになった。

魚屋へ行った後、母にその惣菜屋で何か買ってと何度か提案したが、母はその店は好みでないらしく、オレの提案は却下されて、むしろ手を引っ張られてその場から引き離されたことが尾を引いているのかもしれない。

基本的に、外でお惣菜を買うこと自体があまりなかったが、もしお惣菜を買うときは、スーパーか、市場の別の場所の、もう少し新しいお店で買っていた。

オレは、自分の手を強く引っぱる時の母の気持ちが、なんとなくわかってしまった。

(ああ、お母さんはこのお店が嫌なんだ…)

母はそういう「土着的」なものを嫌った。不潔さや古臭さや田舎っぽさを、とにかく嫌がる人だった。派手で、目新しく、都会的で、和風より西洋風のものを好む人だった。

確かにその惣菜屋さんは、田舎っぽく、清潔感は少なく、ところどころ黒ずんだ、白い割烹着をきたおばちゃん達は、まさしく母の忌嫌う象徴的なものだったと思う。

そしてオレは、母からそんな風に思われているであろうそのお店と、特に、いつも笑顔の太ったおばちゃんのことが気の毒に思えた。一生懸命に働くおばちゃんを見ると、なんだかもの悲しい気持ちになったのだ。

ちなみに、母の気持ちを直接聞いたわけではない。母はそんなこと微塵にも思っていなかったかもしれない。しかし、幼いオレは、勝手にそう感じていた。そして、母がそう思っているので(と、オレが思っていたので)、オレもそのお惣菜屋さんの前を通る時には、並んだ惣菜を、まるで見てはいけないもののような気がしてしまったのだ。

ちなみに、惣菜屋の太ったおばちゃんには、オレよりも3つ4つ年上の息子がいた。同じ小学校だった。そっくりな顔と、体型をしていたので、学校で見かけて、一目でピンときたし、その後に、彼がその惣菜屋の裏口に出入りしているのを、何度か見かけたことがある。

あのお惣菜が売れ残ったら  ー 大抵、夕方でもたくさん余っていたと記憶している ー 彼はあれを食べるんだろうなと思った。埃っぽい市場の中で、時々ハエのたかる、みんなの目にさらされたお惣菜たちを。

そんなことを考えると、またなんだか嫌な気持ちになった。

しかし、時はバブル経済。だんだんと街に新しいお店も増えてきて、母は市場に行かなくなった。スーパーで買い物を済ませることが増えた。いくつかデパートができて、地下にスーパーが増えたのと、ちょうど、街も観光地として、その市場の魚屋中心に値段が高くなったと母は言っていたし、明らかに雰囲気が変わっていった。魚屋さんにしても、地域の人にハタハタとかカレイとかアサリを売るよりも、観光客相手に蟹やイクラを売る方が儲かるのだろう。

そもそも母の好みからいって“市場”そのものが、あまり好きではなかったと思う。ただ「魚が安かったから」という、背に腹は変えられない理由で行っていたのだろう。

オレは大きくなるにつれ、母親と買い物に行くことはなくなった。お使いはよく頼まれたが、市場は行かなかったので、その惣菜屋の前を通ることはなくなった。

しかし、中学2年生の頃だ。母が入院し、父は借金を返すために一日中働き詰めになり、兄貴は遊びほっつき歩いていたので、急遽オレは自分の食事を自分で賄わねばならなくなった。しかも、父から与えられた食費は僅か。少ない金で、食事をやりくりせねばならなかった。

夕飯はカップ麺や缶詰が多かったが、ある時ふと、オレは市場をふらつくことにした。夕方になると、売れ残った弁当や惣菜が値下げするという情報だけは知っていた。

その時、数年ぶりに、例の惣菜屋のことを思い出して、半分怖いものみたさのような気持ちで行ってみた。

驚いた。キョロキョロと、店の前で周りを見回したくらいだ。なぜならその一角だけ、まるで時間が止まっていたかのようだったからだ。

田舎町とはいえ、お店も人も変わり、新しいものが増え、必要とされなくなったものは淘汰される。その惣菜店の手前のお菓子屋はとっくになくなっていたし(店主のおばあちゃんが数年前に死んだのだ)、八百屋もなくなっていた。魚屋は、さっき書いた通り、蟹とウニとイクラがメインになっていた。

時間の止まった惣菜屋には、太ったおばちゃんがいた。少し、白髪が増えたけど、ほとんど変わっていなかった。同じように、笑顔で、てきぱきと仕事をしていた。

今思うと、ずっとお店が続いていたということは、地元の人から愛されていたのだろうと思う。思えば、確かになんだかんだ言っても、いつもお客さんはいた。

オレは少し迷ってから、そこで生まれて初めてお惣菜を買った。金がなかったので、一番安い煮物を少量と、値下げしていたアジフライを買った。

初めて、太ったおばちゃんと会話をした。いや、会話と言っても、これをください、はいどうぞ、いくらです、はいお釣り、というやりとりなのだが…。

お惣菜の入ったビニール袋を片手に、なんだか虚しい気持ちがこみ上げてきた。ずっと時間が止まったその一角で、自分の未来に対して、得体のしれない恐怖が湧いてきた。

当時、家庭の事情のせいで、オレはとても辛くみじめな日々を送っていた。しかしその中で、明るくふるまい、必ずこんな家、こんな街出て行ってやると、歯を食いしばっていた。

しかし、ずっと自分もこの街で、時間が止まったように生きてしまったらどうしようと、そんなことまで考えてしまった。思い込みの激しい少年だったのだ。

帰ってから、米を炊いて、そのおかずで一人で夕食を取った。とても美味しかったが、色んなことを考えたせいか、気持ちは暗くなった。

遅くに帰ってきた父に、取っておいたおかずを出し、惣菜屋さんの話をした。

「あのお店も、おばちゃんもオレが幼稚園くらいの頃から、ずっといるよね。ずっと変わらないって、どんな気持ちなんだろう」

そんなことを父に尋ねたら、父は呆れるように言った。

「あのな、働くってそういうことだぞ?毎日同じことをやるんだよ」

父は黙々と飯を食い、またすぐ仕事に戻った。

(そんなことが聞きたかったわけじゃない)と、父に対してもやっとした気持ちが湧いたが、そもそも、何が言いたいかもわかっていなかった。オレ自身、その時感じてた想いを、自分で言語化することはできなかった。

親父に話したせいか、オレはますますやりきれない気持ちになった。毎日毎日、同じことを続けるのが仕事?そんな人生ならまっぴらだと、今度は怒りすら抱いた。

結局、その一度しか、そのお惣菜屋には行かなかった。やはりあの店に行くと、なんだか悲しい気持ちになるのだ。

それからさらに数年後にそこを通った時は、その店はなくなっていた。

その店だけではなく、市場そのものが、ほとんどの店が潰れていたし、商店街は活気を失っていた。地方都市はどこもそうだ。人口は減り、新しくできた大型のスーパーなどに客は取られ、市場で細々と買い物をする文化はなくなった。

あのおばちゃんの笑顔は、今もはっきり覚えている。家族にご飯を作る、やさしい母親。家庭の台所から漂うあの香り。裸電球に照らされたおかず達。

もっと違う形で、お店のことを知って、もっと自然な形で、おばちゃんの料理を食べてみたかったと、今でも思う。


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言葉の力で、「言葉で伝えられないものを伝える」ことを、いつも考えています。作家であり、アーティスト、瞑想家、スピリチュアルメッセンジャーのケンスケの紡ぐ言葉で、感性を活性化し、深みと面白みのある生き方へのヒントと気づきが生まれます。1記事ごとの購入より、マガジン購読がお得です。

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