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水泳教室とタコチュー

暑いですね。ってことで、またまた夏の思ひ出シリーズです。

今回の話は、僕が小学校の夏休みに毎年通っていた「水泳教室」の話。水泳教室といっても、僕の生まれ育った町は「海」があったので、プールではなく、海水浴場での水泳教室でした。

夏休みになると、2週間くらい、週6みっちりと、海でひたすら泳がされた。

そんな水泳教室に通い出したのは3年生からだったと思う。参加資格自体が、3年生だったような気がする。多分あまり小さい子には過酷だったからなのだろうか…。

前回書いた「盆踊りとアイスキャンディー」のお祭りと同じく、こちらも我が家は強制参加に等しく、クラスのほとんどの生徒が参加していたと思う。

朝8時前には駅に集合。僕の通う小学校だけではなく、近辺の小学校の生徒が駅前に集結し、かなりの人数だった。おかげで毎年、他校とのケンカ騒ぎが起きる。

電車に乗って、30分くらいで海水浴場のある駅へ到着し、そこから20分くらいは歩いたと思う。ボランティアなのか、クラスメイトの母親とか、多分PTAの係の人も引率に来ていた。

海の家の立ち並ぶ海岸の一角に、大きなテントの屋根があるスペースがある。男女に分かれ、さらにそこから小学校ごとに分かれ、テントの中に荷物を置き、服を脱いで砂浜に集合。ほとんどの生徒が水着はあらかじめ装着している。

初年度の初日は、全員海に入り、先生たちが見守る中簡単なテストを行い、レベルを格付けされる。

翌日からは、その級での水泳レッスンだ。

水泳帽に白いラインを縫い付け(家で親にやってもらう)、それがクラスの「級」を表し、毎朝各自のクラスへ向かう。そこからは他校の生徒と混じり合うので、同じ学校の仲間の数人とは離れ離れになる。

砂の上にポールが立ててあり、同じくらいの実力の子どもたちが集合する。ちなみにそこは大きなビーチだったが、その近辺は一般の海水浴に来た人たちは入れないようになっていた。

指導する先生たちのほとんどは小学校の現役教師たちだったけど、全体的に「ガチンコ体育会系」の教師だった。女子クラスには女の先生もいたし、我が校からも優しい男の先生も参加していた。しかし僕は3年〜5年まで通ったけど、(後述するけど、6年生は行ってない)見事に「スパルタ志向」の指導員に当たってしまった。

特に4、5年生の頃の僕のクラスの指導員が思い出深い。

その指導員の先生は、僕らから「タコチュー」とあだ名される、丸顔でいつも赤ら顔した、胸毛の生えたごっついおっさんだった。

赤ら顔なので「いつも密かに酒飲んで酔っ払ってる」と僕らは噂していたが、その真意は明らかではない。ただ、このタコチューのおっさんが怖いのなんのって…。

ちなみにこの物語の舞台は「北海道」の海である。午前中の水はかなり冷たいなのだ。今のように「気候変動」だの「温暖化」だの言われていない時代で、北海道は夏場に30度を超える日なんて年に1度あるかどうかだ。

大雨にならない限り水泳教室は決行されるので、曇り空や小雨の中でも泳がされる。冷たい水の中にずっといると、全員唇が紫色になって、震えて歯がカチカチと音を立てる。しかも水が冷たいだけでなく、晴れていないと、水から上がってからも暖を取れないのだ。

だが、そこで寒くてガタガタ震えていようもんなら、タコチューから「気合い入れろ!」とか「動かないから寒いんだ!」とか言われて、背中を叩かれたり、休憩返上で泳がされたりした。

他のクラスもそこそこ厳しく、「寒い」なんて理由で休むことは許されなかったが、周りのクラスの話を総括すると、タコチューほどスパルタでなかったのはわかった。

悔しいのが、4年生の頃はあまり泳げず、4級のクラスだった。そこでタコチューの厳しい、いや、厳しすぎる指導のおかげで、クラスを2つも上げて、最後は離れることができてほっとした。

しかし翌年になってみると、今度は2級の担当がタコチューになるという不運!

しかも僕は「すぐふざける生徒」としてしっかり覚えられていたから、ちょっとでもサボったり、手を抜いたり、横着したり、はしょったり、誤魔化したりしたりしようもんなら即座に見つかり、ゲンコツ制裁を受ける。

そしてそれでもこちらの態度を改めないと、後頭部を押さえつけられて海に顔面沈められたり、抱き上げられて放り投げられるという、相当荒っぽい教師だった。今の時代なら完全に暴力教師で懲戒免職だろう。

ところで、曇りや小雨の日は寒いと書いたが、だったら晴れてればいいのかというとそうでもない。晴れていたら晴れてるで、今度は「日焼け」との戦いだ。

猛烈な夏の日差しの中、昼休み以外の時間は全身を晒され続けるのだ。もちろん、日焼け止めなんてハイカラなものは存在しないし、あってもそんな軟弱なものを塗ることは許されなかっただろう。だから毎年、日焼けで真っ黒になった。

レッスンは水の中だけではなく、とにかく「型」をしっかりやる。型の練習は砂の上でやる。バタ足から始まり、平泳ぎ、横泳ぎ、クロール。砂の上で、砂を撒き散らしながら動きを繰り返す。

もちろん晴れている日は、砂は暑いし、日差しも暑い。タコチューも顔だけでなく、全身赤黒くなっていたが、象のような皮膚をしていたので、おそらくサバンナで裸で狩猟しても大丈夫な肌を持っていたのだろう。

しかし、子どもたちは違う。みんな日焼けに苦しむ。肩や腕や背中やら、教室が始まった数日間はみんな真っ赤になって「風呂に入れない」とか「シャツが擦れただけで痛い」と、時に半べそかくくらいだった。

「日焼け」と書くと印象はその程度だが、実際は「火傷」なのだ。痛いに決まっている。夜にあまりに僕が痛がるので、父が近所からアロエを持ってきて背中に塗ってくれたのを覚えている。

だがしかし!そんな日焼けで真っ赤になった背中に、あろうことかタコチューは、僕らへの制裁の一貫として、アントニオ猪木が若手レスラーに気合入れるがごとく、そんな僕らの背中を平手で「びしゃーん!」と叩くのだ。それがまた飛び上がるほど痛い。実際に飛び上がった。

火傷で真っ赤になった背中に、さらに手形がつくのだ。今思い出しても、か弱い子どもたち相手にそんなことをかませるタコチューは、やはりアルコールを摂取していて、正常な判断力を失っていたのではないかと思ってしまう。

だがこちらもなかなかどうしてか、そんなタコチューの横暴に対して、素直に従えず、タコチューが横暴かつ非人道的であるほど、まるで「お前、わざとやってんのか?」とタコチューに言わせしめるほど、僕と仲間の数人はいたずらや悪ふざけがエスカレートした。

他校の生徒も一緒だと書いたが、とにかく田舎もクソガキなんて猿山と同じで、毎年のように揉め事を起こす。しかし、僕ら「タコチュー組」は、タコチューという暴君のおかげで、さっきまで「てめぇ、何ガンつけてんだよ!」と、ヤンキー漫画に500%くらい影響を受けていがみあって一触即発だったクソガキどもが団結するのだ。

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お昼休みは、テントの中で子どもたちがひしめきあって弁当を食う。みんな弁当持参だ。海の家から焼きとうもろこしの香ばしい香りが漂ってくるが、我々は弁当と水筒の麦茶。炎天下の日は、

テント内は日陰とはいえ、暑い日の弁当は「温めてくれたんですか?」というくらい、ほどよく生温く仕上がっている。あの環境でよく誰も食当たりとか起こさなかったものだと思う。

だがみんな、激しい授業のせいで腹ペコで、それどころじゃなかった。そもそも、熱中症とかいつ起きても不思議じゃない日もザラにあったが、僕の知る限り、そういう事故は一度もなかった。

皮肉なもので、僕はタコチューのおかげで泳ぎが上手くなったとも言えるし、あの劣悪な環境下で鍛えられたものある。確かに荒っぽかったけど、そんな中だからこそ、子どもたちは強い体と精神力を育まれたし、タコチューのような教師のおかげで反骨精神が培われたのも事実だ。

盆踊りの話でも書いたけど、そういう強制的な行事の中で、ガチンコスパルタな指導と、厳しい自然環境の中でも、僕らは「できることをやる」のだ。

何ができるって?

そりゃ「楽しむ」ことだ。

一つは「女子」だ。他校の女子もいるので、すけべな僕らは完全にエロ眼鏡で水着の女子たちをみるし、授業後はいち早く着替え、女子テント棟の方を凝視する。女子はバスタオルを全身にすっぽりと被ってごそごそ着替えているが、ぱらりと風の神様が起こす、千載一遇のチャンスを狙っていた。

当然女子たちも、

「男子〜!なにこっち見てんよの!」

とこちらのエロメガネに気づき、やりかえしてくるが、そういうことを言うのは大抵ブスな女子で、

「うっせぇブス!おめえを見てんじゃねえよ!」

とまたまたやりかえすのであった。

あとはとにかく「ふざける」ことだ。それで楽しむしかない。

だから授業中のタコチューへの悪戯は欠かせない。

休憩中にタコチューの持っていた日誌を砂に埋めるとか、ポールを倒して居場所をわからなくするとか、泳ぎながらさも偶然指がひっかかりましたという感じでタコチューの水着を脱がせようとするとか(誰もその中身は見たくない!)、バタ足を激しくやってタコチューの顔面に水を浴びせるとか。

その度に、タコチューから張り手や顔面ごと水中に沈め込まれたりと、厳しい制裁を受けるにもかかわらず、そして「いってぇ!あのくそじじい!」と、仲間達で文句を言い合うのも、すべて込み込みで楽しんでいたのかもしれない。

それと他校とのケンカ騒ぎが毎年の行事だった。休憩中や、授業の終わった後にあーでもないこーでもないといい、水泳教室が終わった後日に、実際にその時の因縁が元で街中でバトルになったこともある。

僕はしょうもないクソガキで悪ガキだったし、痛い思いもたくさんしたが、それらがすべて「いい思い出」になってるのだから不思議なものだ。その時は不満だったり、つまらなかったりしたはずなのに、後になってみると実は「やってよかった、行ってよかった」ということはたくさんある。

***

最後に、6年生は参加しなかったと書いた。

その理由はあまりはっきり覚えていない。とにかく、すごく嫌だったのだ。毎年毎年、うんざりしていたし、僕は5年生の時点の泳力で十分満足していた。あとはクロールの息継ぎを覚えれば1級だったが、実際、僕はプールはあまり好きではなく、海で平泳ぎや潜水、立ち泳ぎ、そして遠泳の体力などがあればもう十分だった。

そういう理由などを必死にプレゼンし、珍しく両親に駄々をこねたら、あっさりと「今年は行かないでいい」ということになって、なんだが拍子抜けしたのを覚えている。

水泳教室から解放された夏休み。我が家はどのみち「旅行」なんてものは一度も連れて行ってもらったことはないが、とにかく休みだ。今年はタコチューのことも忘れて、ゲーム三昧して自由に過ごすぞ! と意気込んでいたのだが、結果として、一番つまらない夏休みとなってしまった。

まず、親しい仲間は例年のごとく水泳教室に行っているので、朝から夕方まで遊び相手がほとんどいない。夜に花火とかしたけど、やはり半日暇をつぶすのは辛かった。

それまでは、ほぼ強制的に参加させられていて、自由になって参加しないと、これほど味気ないものだとは…。

もちろん、それは僕の感想だ。同じように、6年生になって不参加になった友人もいたが、彼は普通に楽しそうだった。

自由であるとうことは、確かに幸福なことかもしれないけど、小学6年生の僕に与えられた自由な夏休みは、当時の僕には持て余すものだった。

大人になって、孤独になれ、孤独を楽しみ、やりたいことや生きがいがあり、そして自分の行動や言動に責任を持ってこその自由だと、今になって思う。

そして、自由にするほどに、例えば暴飲暴食で体を壊したら結果的に不自由になったりするように、自由とは常に責任やパランス感覚が必要になる。

だから僕は子供の頃の、あの半強制的な環境や、タコチューのような教師に巡り会えたことに感謝している。

今、できることをやる。それは今の僕が大切にしていることの一つであり、人にもそれを伝えている。そういう感覚は、案外不自由だった頃に養われていたりするのだ。

おわり

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