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秘密のアート基地、貴石修復所 *n.5

L'Opificio delle Pietre Dure - alluvione

貴石工房が作られた由来は、シリーズ第3回目でご案内していますが、なぜ「貴石」という名前を頭に掲げ、多種多様な作品を修復するようになったのでしょうか。

貴石修復所の歴史の紐を解いていきましょう。

貴石工房の誕生と危機

貴石工房の誕生は1588年。貴石を嵌め合わせるコンメッソ・フィオレンティーノ、日本語でフィレンツェ風モザイクと呼ばれる技法で、メディチ家礼拝堂を装飾する専門工房です。

メディチ家が1700年後期に断絶。メディチ家と強い結びつきのあったハプスブルグ家が跡を継ぎ、彼らもまた、貴石工房に依頼し、美しい作品が生み出されます。

しかし、1865年にイタリアが国を統一すると同時に、トスカーナ公国も消滅。貴石工房は危機に瀕します。

なぜでしょう?

天空を背負うアトラス。
1700年代の作品。

貴石やカメオを彫るためのグラインダーが
天空のなかに収められています。
実は作業台になっていて、
引き出しには105種類のグラインダーが
収められていたそうです。

足踏みを前後することでモーターが動き、
グラインダーが作動する仕組み。
飴色のなんとも美しい姿。



工房の仕事は、依頼人がいて成り立ちます。貴石工房では、トスカーナ大公という、大きな、そして唯一の依頼人を失ってしまったのです。

仕事が激減し、閉鎖せざるをえない瀬戸際に立たされた工房では、貴重な作品や、当時流行のアールヌーヴォ様式の作品を作り、市場で販売しますが、芳しくありません。

ほぼ同じ時期に、貴石博物館も誕生しますが、訪れる人は多くありません。

当時の工房の風景

このままでは、貴石工房はこの世から消えてしまう。なんとかせねば。

工房の責任者だったエドアルド・マルキオン氏は、工房を眺めながら考えにふける日々。ある日、ふと思いついた。

我々の技術は、新しいものを作るだけでなく、修復にも活かせるのではないか?

マルキオン氏は、すぐに行動に移し教会や美術館に働きかけます。その結果、フィレンツェの洗礼堂のモザイクをはじめとし、イタリア全土から修復依頼が寄せられるようになります。

1800年後期の写真

ここで貴石工房は、貴石修復所へと大きく転換したのです。

もうひとつの修復所

ここで、もうひとりのキーパーソンが現れます。歴史家のウーゴ・プロカッチ。27歳のまだ若き青年は、1932年にイタリアで最も最新の設備を揃えた、修復研究所を設立します。

ここで混乱しないように整理すると、貴石修復所では、石、ガラス、焼き物の修復が専門で、プロカッチ氏の新しい修復所は、絵画や木製の作品の修復が専門なので、棲み分けができています。

研磨するための手動の機械
道具の美

当時の修復は、作品にすぐに取り掛かるのが常でしたが、プロカッチ氏は、修復前の調査を綿密に行います。いまでは当たり前のように行われている、科学分析です。絵画をX線に通し研究するのも、この修復所が最初ということです。

時を経たので修復するものもあれば、人災や自然災害により、被害を被った芸術作品も修復の対象になります。皮肉なことに、被害が大きければ大きいほど、修復技術のレベルは格段に上がります。

第二次世界対戦後は、貴石修復所は戦時中に壊れてしまった石版、モザイク、テラコッタなどの修復も行うようになり、国内外でその名を知られるようになります。

アルノ川の氾濫

1966年11月4日。フィレンツェがアルノ川の大氾濫に見舞われます。雨が1ヶ月降り続け、アルノ川が増水し朝方に決壊。

ストーブの燃料や、自動車のガソリンも流れ出し、泥土と油にまみれた川で街が水浸しになる惨事に人々は呆然とします。

1階部分は水の中
参照:Wikipedia

国立図書館の地下に保管してあった大量の古書、教会の数々の作品も被害に遭います。避難場所を早急に決めなければなりません。

ウーゴ・プロカッチが設立した修復所は、多くの作品を収容できる広い空間であるバッソ要塞に移ります。

シリーズ第1 回目から読んで頂いている方は、お気づきになったかもしれません。この時から、絵画、木製彫刻、額縁等の修復の本拠地は、バッソ要塞になります。

バッソ要塞
参照:Wikipedia

アルノ川の氾濫が起きる少し前に、本来の場所であるサンタクローチェ教会に戻されたばかりの、中世時代の画家チマブエが描いた磔刑図。

皮肉なことに、泥土にまみれた教会の床から発見されます。

修復されたチマブエの磔刑図
サンタクローチェ教会で見ることができます。
参照:サンタクローチェ教会HP

バッソ要塞の修復所は天井が高く、広々としたオープンスペースになっています。そこに最初に搬入されたのが、この磔刑図です。

名だたる修復専門家が世界各国からフィレンツェに集まり、修復方法を議論し、バッソ要塞の修復所は、伝統と最新技術を融合した、最もアバンギャルドな修復の中心地になります。

1974年にイタリアの文化財を保護する行政機関である文化財・文化活動省が発足されます。

当時のバッソ要塞の修復所の責任者であり、自身も修復専門家であったウンベルト・バルディーニ氏が政府に働きかけ、翌年の1975年には、バッソ要塞の修復所と、貴石修復所が、一つの機関として統一するようになります。

これが、現在の複合修復研究機関である、貴石修復所です。

アルノ川氾濫のドキュメンタリーを、名作映画「ロミオ&ジュリエット」や「ムッソリーニとお茶を」の映画監督フランコ・ゼフィレッリが製作しています。イタリア語になりますが、興味のある方は、ご覧ください。

18分18秒からサンタクローチェ教会が、21分31秒からチマブエの磔刑図の映像があります。

フィレンツェ中心街の東西南北いたる所で、アルノ川がどの高さまで浸水したかを示す石碑が掲げられています。

波打つ模様の石碑

中心街を歩いていたときのこと。ひとりの外国人が、この石碑を探していたようなので、ここにありますよ。と案内したら、

ここにありましたか。ずっと探していたんです。

実は、僕がミラノの大学へ留学していたときに、アルノ川の氾濫が起きました。ニュースでこの惨事を知り、居ても立っていられず、フィレンツェにきて、水浸しになった古書をみんなで手分けして運んだんです。

彼はダーティ・エンジェルのひとりだったんです。Dirty Angel(泥の天使)とは、アルノ川の泥にまみれながらボランティアを行なった人たちの呼称です。

定年になり、フィレンツェを再訪したとのことでした。あの頃は20代の若者だったけど、いまは、こんなに歳とってお腹も出ちゃったよ。

懐かしそうに石碑を眺めながら会話をする、おじ様に出会えたことに、わたしは、すっかり感動してしまいました。

地震からの再生

日本は地震の国ですが、イタリアでも地震は起きます。イタリアの建物は石づくりで、何世紀も経ているものも少なくありません。2000年代にいままで起きた大きな地震は下記になります。

2009年にラクイラ村(L'aquila)
2012年にエミリア州
2016年にアマトリチェ村(Amatrice)ノルチャ村(Norcia)

そのたびにアート作品も犠牲になります。

ノルチャ村のサンベネデット教会
参照:OPD - Salone dell'Arte e del restauro di Firenze  2022

2009年の地震の経験から耐震構造を備えていたノルチャ村の教会は、1日目の地震には耐え抜きましたが、数日間続いた揺れに耐えきれず、ついに崩壊してしまいます。

地震が落ち着いたところで、作品の収集が行われます。

参照:OPD - Salone dell'Arte e del restauro di Firenze  2022
左側は修復前。右側は修復後。

参照:OPD - Salone dell'Arte e del restauro di Firenze  2022

作品の救助をする際に、大切なことは、どんなに小さな欠片や、一見関係ないと思われるものも、すべて収集し、現場にはなにも残さないこと。

参照:OPD - Salone dell'Arte e del restauro di Firenze  2022

C'e' ancora il dipinto ?
このなかに絵画があるでしょうか?

参照:OPD - Salone dell'Arte e del restauro di Firenze  2022

ノルチャ村のサンタマリア・デリ・アンジェリ小礼拝堂より集められた断片。左側にマリア様が跪く(ひざまずく)、「受胎告知」のシーンが蘇っています。

2009年に起きたラクイラ地震から救い出された板絵。割れてしまった板を貼り合わせ、修復しているところです。

参照:OPD - Salone dell'Arte e del restauro di Firenze  2022

地震で被害を受けた、上記の作品の説明や写真は、今年5月に開催された修復国際会議で貴石修復所が解説した一部を抽出しています。

地震で被害を受けた作品は数多く、さらに、アルノ川の氾濫で痛んだ作品の修復も、いまもなお、続けられています。

母体がメディチ家を発端にする貴石工房なので、現在も「貴石」と名が付いていますが、現在は世界的にも重要な、多岐に渡る総合修復研究所になっています。

メディチ家の家紋を中心に添えた
貴石研究所のシンボル
参照:OPDのHP

面白いのは、今回登場したキーパーソンとなる人物らと、もうひとり、バッソ要塞の修復所と貴石修復所を融合させたときの、イタリア首相ジョヴァンニ・スパドリーニは、フィレンツェ出身。映画監督のフランコ・ゼフィレッロも同じくフィレンツェ出身。

フィレンツェ人が自分たちの街のために立ち上がり、歴史の1ページを作っているのも、興味深いです。

博物館の中庭にある修復所

貴石修復所を見学したところから、興味が湧き調べて行くうちに、シリーズも5回目を迎えてしまいました。お付き合い下さいまして、ありがとうございます!

紆余曲折を経て、いまも歴史を築いている修復研究所。フィレンツェに訪れる際には、貴石博物館へもぜひ足をお運びください。

街には、いまでもコンメッソ・フィオレンティーノ、フィレンツェ風モザイクを製作している工房が伝統を受け継いでいます。

最後までお読み下さり、
ありがとうございます!


Museo dell'Opificio delle Pietre Dure 貴石博物館
via degli Alfani, 78. 50121 - Firenze

月曜日〜土曜日:8時15分から14時まで開館
日曜日、祝日、6月24日、は閉館
1枚:4ユーロ

注:2022年12月3日まで、館内のメインテナンスのため閉館しています。





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