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人生のキーポイント パート②

前回の続き

高校選択で私立高校を選んだのは、
家族としても一大事なことだった。
経済的に厳しいのに無理して通わせてもらっているからだ。

私立高校に行くことを条件にあることを言われた。
「大学は、国公立大学に行きなさい」
経済的に楽だからだ。
これが難しいのか、簡単なのかは
正直、当時中学生の私にとってはよくわからなかった。
行きたい大学があったわけではなく、高校卒業後は
大学に進学だろうと思っていたので
「わかった」と返事をした。
漠然と勉強もちゃんとしないといけないと
覚悟を決めた日だった。

せっかく挑戦できる環境に入れてもらえたので
中途半端に部活を行うわけには行かない。
毎日朝練、放課後練習、土日だってない。
上下関係は、異常に厳しい。
殺されそうになったこともある。
帰りに辛すぎて涙を流したこともあった。
1年生の頃は、朝の掃除、昼休みに掃除もした。
そんな中でも選手になりたい。
いや、親のためにならなければいけない。
いるだけで精神的にも強くなれる場所だった。

もちろん、親との入学するための条件も
忘れてはいけない。
さすがに、家に帰って勉強できるほど
体力はなかった。
だから、毎日の授業内で理解しようとした。
授業と授業の休憩時間には、先生から出される
課題に取り組んだ。
流石に、それだけでは定期テストで点数が
取れないので、定期テスト2週間前からは
身を犠牲にして勉強した。

選手になれたのは、3年生が卒業してからだ。
同期では自分しか2年生の時に選手として
出ていなかったこともあり、
自然な感じで自分の代には主将を任された。
先輩がいないので、精神的に病むことは
なくなったが受験勉強を2年生の1月頃から
スタートさせたため、余裕はなかった。

目標としていたインターハイ出場は叶わず、
決勝で負けた。あと一歩だった。
この大会に出すか出ないかで人生はまた
変わったのかもしれないと今でも思う。
後悔は今でもある。
そして引退した。

周りの人よりは、スタートをしっかり切って
受験への準備ができていた訳ではないので、
猛勉強の始まりだ。

常に勉強のことを考えていた。
当時付き合ってた人と遊びにも行かず、
勉強に明け暮れた。その人は、優しかったので
応援はしてくれていたが、今思えば
相当そっけない態度だったと思う。申し訳ない。

昔から暗記するのが苦手だ。
短期記憶は悪くないが、長期記憶が普通に人より
遥かに低い。勉強すればするほど、自分の能力の
低さにガッカリする日々だった。

センター試験に挑んだ。
できる限りのことをした上で挑んだので
後悔はないが、上手くいかなかった。
実力のなさだが、流石に「残酷すぎる」と思った。
だからといって、もう一年勉強したところで
もう何をすればいいのかすらわからないくらい
勉強はしたので、無駄だと思った。
幸いなことに本来行きたかった学校から
レベルを下げればいける国公立大学はあった。

そこの二次試験を受けることにした。
センターの結果では、A判定かB判定だった。
そして、二次試験は、面接と実技である。
実技は、私が高校時代打ち込んできた競技だ。

結果合格することができた。
母との約束を果たすことは、できた。
勉強も部活も満足のいく結果ではなかったが、
一生懸命行った結果なので、仕方ないと思えた。

今思えば、大学の授業料は
全部奨学金を借りて自分で払っているので
どこでもよかったのではないのかなとも思う。
経済的に一人暮らしは、させてあげられないと
言われたのである程度限られはするが。
どこでもいいと言われれば、そこまで勉強に
打ち込めなかったかもしれないので
有難い条件だったのかもしれない。

p.s.  長々エピソードを話してしまったが、結局何が言いたいのかは
明日伝えます。

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