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「エレファントカシマシとスピッツの研究」 (第四回)

生き物の詩

 スピッツリルケに耽りたいと思う。まずは、私がリルケに心を射抜かれた一片の詩を掲げたい。これは訳者である、堀辰雄先生に感謝をしたい。スタジオジブリの名作『風立ちぬ』といい、「生と死」を匂わせる世界を翻訳されたらこの上ない人物である。

さらにふたたび
ライネル・マリア・リルケ 堀辰雄訳

さらにふたたび、よしや私達が愛の風景ばかりでなく、
いくつも傷ましい名前をもつた小さな墓地をも、
他の人達の死んでいつた恐ろしい沈默の深淵をも
知つてゐようと、さらにふたたび、私達は二人して
古い樹の下に出ていつて、さらにふたたび、身を横たへよう
花々のあひだに、空にむかつて。


(底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房 1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行 1982(昭和57)年9月30日初 第1刷発行 初出:「胡桃 夏季号(創刊号)」赤坂書店 1946(昭和21)年7月10日 入力:tatsuki 校正:染川隆俊 2010年11月15日作成 青空文庫作成ファイル)

 この詩に登場する「私達」というのは、互いに結び合うものを感じる恋人どうしであろうと私は信じている。
 そして、この「二人」はいずれ、他の人もそうであるように「死」を迎える運命にある。
 しかし、「死」の方向へと確かに動いている「生き物」であるという自覚がそこに芽生える。「生き物」とは本来、すっぽりと包まれた深い闇の中に隠れているありとあらゆる「事物」を指すのではないか。その事物がポッと灯りに照らされた刹那の輝きにリルケは「生」動きを観てとる。

私の生まれてきたみなもと、暗黒よ、
私は炎よりもおまえを愛する、
炎は限られた一ところを
明るく照らしながら
世界を区切ってしまう、
一歩外では何ものももはや炎のことを知らぬ。

だが暗黒はすべてを抱いている。
さまざまの物の形を炎を、獣たちを私を。
ああなんとそれは激しく摑むことだろう、
人間を、もろもろの力をー

それにふと私のかたわらで
一つの大きな力が動くかもしれないのだ。

私は夜を信じる。


(『リルケ詩集』2020年4月6日第7刷発行 訳:高安国世 発行者:岡本厚 株式会社岩波書店 p24〜25 「修道生活の書」より引用


 これらの詩を読んだ時と同じような感覚に襲われるスピッツの曲がある。


研がない強がり 嘘で塗りかためた部屋
抜け出して見上げた夜空
よじれた金網を いつものように飛び越えて
硬い舗道を駆けていく

似てない僕らは 細い糸でつながっている
よくある赤いやつじゃなく
落ち合った場所は 大きな木もざわめき やんで
二人の呼吸の音だけが浸みていく

君と遊ぶ 誰もいない市街地
目と目が合うたび笑う
夜を駆けていく 今は撃たないで
遠くの灯りの方へ 駆けていく
(『夜を駆ける』:スピッツ アルバム『三日月ロック』収録)

 リルケの詩と比べると、草野マサムネ氏の詞世界はより「生の動き」に溢れていて官能的にすら感じるほどである。これは「よじれた金網」「硬い舗道」「誰もいない市街地」、とても冷たい静かな無機質の夜の背景が、かえって二人の息づかいまで聞こえさせるような張り詰めた「生きた緊張感」を与えているためかと思われる。「今は撃たないで」というフレーズもその「風景」と「僕」と「君」と、この曲の世界全てが全一的に生きて動いている奇跡的な、でも一瞬で消えてしまいそうな、その絶頂の中にまだ二人でいたいという思いの表れであろう。

 私はこれほど、曲の中で「生き物」が生きているロック(まるで虫箱に鈴虫を飼っているかのような)を作るソングライターを知らない。純粋な生き物が、そこに生きている。この夜の刹那の生の奇跡を「音」でも表現しきっているところにスピッツというロックバンドの計り知れない詩的空間把握能力を感じるのである。

スピッツとリルケの「天使」

天使から10個預かって
小さなハネちょっとひろがって
膝を抱えながら 色のない窓をながめつつ
もう一度会いたいな あのときのままの真面目顔

鈴虫の夜 ゆめうつつの部屋
鈴虫の夜 一人きりゆめうつつの部屋


(『鈴虫を飼う』:スピッツ アルバム『名前をつけてやる』収録)

 この曲は、鈴虫を10匹飼うことにしたのか、「天使から10個預かって」という表現をしている。草野氏の「いのちの捉え方」を垣間見ることができる。
 この「天使」は、文字どおり自分には手の届かない存在である「神さま」からのメッセージを伝えてくれる「使い」、「神さまの世界」もしっており「私たちの世界」もしって行ったり来たりできる存在である。
 
 スピッツにとって、天使は人とも交わることができる。

 その天使から10個預かったのである。預かったものは、いずれ返さなければならない

「(前略)、きっと人間が死ぬととりあえず全部地球っていう魂に帰るんじゃないかって。肉体はコップみたいなもんで地球から魂をすくい上げてるだけで、また海に戻って結局は一緒くたになってるんじゃないかって思ったりして。(後略)」
(『スピッツ』1998年7月31日二版発行 渋谷陽一 株式会社ロッキング・オン P178)

 スピッツが「生き物」を歌うことは、一緒くたになって溶け合うことに向かっている。
 届かないけれども、それでも天使から預かった「生き物」を歌い続けることで、そこに届くまでただ迫るように歌い続けるつもりでいるのである。
 そのとき天使に余計な重荷を託するようなことはしない。

 このスタンスは、リルケの『ドゥイノの悲歌』に同じようにあらわれるが、スピッツと大きく違うのは、天使はまるで手の届かない交われない存在として詠われる。
 リルケはもし天使と同等の交わりができてしまったとしても、迂闊なことができない。

『新詩集』の詩「天使」(Der Engel)では、「天使のかるやかな手にお前の重荷(本質的でない個人的・日常的な労苦をさすのであろう)を託するな。そのとき天使の手は、夜、お前のもとにあらわれて、よりはげしく角逐してお前をためし⋯⋯さながらお前を創造するかのようにお前をつかみ、お前をお前の鋳型から破り出すだろう」という意味のことを言っている。
(「ゲオルゲとリルケの研究」昭和35年11月10日 第一刷発行 手塚富雄著 株式会社岩波書店 P476〜477)

 この点、若きゲオルゲは詩集『讃歌』において、詩人として「待ち」「熟した」自分のもとに、女神の方から降りてきて、ゲオルゲと惜しげもなく触れ合うのである。
 若きゲオルゲはその若い精神、その勢いで、詩人として、天使をさらに司る神さまともいきなり交じわったのだ(しかし、それは束の間の事であった)。

 こうして、同じ時代を生きた詩人が、同じ苦悩に対して、違った詩人としての在り方を確立させることとなった。この辺りについては、またいつか掘り下げたい。


                            つづく

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