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世界一周1か国目:タイ美術/後編(2022年6月15日~7月14日)
躍動するタイの守り神たち
チェンマイの寺院
日本では寺院と言えば厳かな雰囲気や質素倹約、侘び寂びと言った日本的美意識を主にイメージするかもしれませんが、タイの寺院は躍動しています。前回の記事では堂内にある壁画を取り上げました。
本記事では堂外にある彫刻や浮彫を取り上げます。タイの寺院で特に躍動感を感じたのは、チェンマイ旧市街においてです。大抵どの寺院もまず階段の下で靴を脱いでから上がり、堂内に入ります。その階段手すり部分に付随している個性豊かな守り神たちが、躍動しているのです。生き生きとしていたチェンマイの守り神たちを一部紹介します。
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スコータイ遺跡の聖獣浮彫
これらチェンマイの守り神たちを見た後、続いてスコータイ遺跡の浮彫を見て回りました。カンボジアのクメール文化を独自に発展させてタイ文化を創っていったタイ文化原点の地スコータイ。そしてこちらが一番最初に注目した獅子の浮彫です。
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遺跡に見られる生き物の浮彫等は、どの文化圏においてもやや表現の固さが見られるものと認識していました。まだ文字を持たない各文明の初期段階において美術は文字情報でもあったため、確固たる型がありその型を忠実に表現することが最も優れた芸術家であり職人とされた場合が多いからです。
しかし、スコータイ朝が残したこの獅子は生き生きとしています。生命が宿っているようです。この獅子は蓮の花の上、蓮台に乗っているため神の一種、聖獣であることがわかります。チェンマイ同様、タイの浮彫では聖獣がどれも生き生きとしています。
漆喰装飾
遺跡の本来の姿
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タイの遺跡と言えば赤煉瓦が積み重なっているイメージですが、所々に上記のような漆喰装飾が残っています。
現在は赤煉瓦が露出している遺跡の数々も、元々はその表面に漆喰の美しい浮彫が施されていました。古代ローマの遺跡もエジプトのピラミッドも元々は全面が大理石で覆われていたのと同様に、タイでは漆喰で覆っていたのです。
スコータイ歴史公園では、それらがまだ見られる遺跡を中心に回りました。
保存と公開の両立
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こういった浮彫は遺跡にそのまま貼りついたままだと風化しやすく、保存のためには漆喰部分を切り離して博物館に移すのがベストですが、場所を変えた途端にこのレリーフたちは本来の意味を失います。この漆喰にお参りに来る人もいます。そういう役割をそのままに鑑賞できるのが遺跡のおもしろいところです。
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「型」を発展させる型破り
タイ文化の流れ的には、クメール(カンボジア)の後にスコータイ、アユタヤと続きます。クメールの型を独自に発展させたのがスコータイ、それに加えて国際色豊かな文化を吸収して発展したのがアユタヤです。
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そのそもそもの原点はクメールを型にしています。その型を破ったという意味で型破りな表現になるのは自然な流れで、表現の固さが無くなり躍動感のあるタイならではの表現が生まれたと考えられます。
タイ美術の最終形態ワット・アルン
上記のような遺跡の漆喰装飾は大抵の場合、部分的にしか残されていません。どこかに当時の状態がそのまま残されている遺跡はないかと調べていたところ、バンコクに漆喰などの装飾が現在でも綺麗な状態で見ることができる寺院があると知り、行ってきました。ワット・アルン、通称 "暁の寺院" です。
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アユタヤ朝時代に建造され、19世紀に大規模な修復がなされています。そのため現在でも美しい姿を見ることができます。各国からの輸入品らしき陶器の破片が無数に埋め込まれているのは、アユタヤが国際交易都市して栄えていた証拠でもあります。
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遺跡が多い=当時の繁栄を示す
新たな表現が生まれる歴史的背景
アユタヤではまず日本人村を訪れました。当時2000~3000人もの日本人が暮らしていた日本人村。1枚目はその頭領、山田長政。1628年にはタイの将軍的な地位に任命されています。北隣にオランダ人村、川を挟んで西隣にポルトガル人村など他にも各国が拠点を構えるほど国際交易都市でした。
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アユタヤになぜこんなに多くの遺跡があるのか、つまりなぜ当時栄えていたのか、よくわかりました。クメール文化を独自に発展させたスコータイに続き、様々な文化が混ざり合い発展したアユタヤ。新たな表現が数多く華開いた時代には、豊かな文化的交流が背景にありました。
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