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BIZEN中南米美術館 ―それまで「美術」だと思っていたものとは圧倒的に違う何かに釘付けになった―

 海外の美術文化に興味を持ち、旅に出るきっかけとなった岡山県備前市日生町のBIZEN中南米美術館(図1)。日本で唯一中南米に特化した美術館です。
 2014年8月31日、名物カキオコ(牡蠣お好み焼き)を食べに日生を訪れました。そこで「五味の市」なども併せて散策していたときに目にした、中南米美術館と書かれた案内標識や看板の数々。こののどかな港町に、なぜ中南米に関する施設があるのか。興味本位で見に行きました。

額縁内で完結しない美術

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図1 BIZEN中南米美術館の外観。外壁には約1万6千枚の備前焼の陶板が敷き詰められている。

 中に入ると、異世界が広がっていました(図2)。マヤ文明やアンデス文明などを始めとする、ロマンを掻き立てられる古代中南米美術の数々が突然カキオコ巡りの合間に割って入ったのです。
 展示品は古代中南米にて制作された実物やレプリカ、写真資料やキャプションによる解説などで、古代中南米美術と切り離せない関係にある宗教観等を踏まえた上で鑑賞できるよう工夫されていました。

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図2 館内展示室

 例えば、紀元前2世紀から6世紀に栄えた古代メソアメリカ最大の宗教都市テオティワカン。太陽・月のピラミッドを始め、水や豊穣を司る蛇神ケツァルコアトル(図3)の神殿などで知られています。テオティワカン衰退後もその宗教観はメキシコ中央高原諸都市で受け継がれ、ケツァルコアトルへの信仰は特に厚く各地で石彫等が見られます。

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図3 蛇神ケツァルコアトルの図(奥)

 水と豊穣を司るということは、つまり王権の力を象徴する神ということにもなり王たちは特に重宝しました。こういった宗教観に基づくピラミッドなど主要建造物がこの地にできたのは、1世紀~2世紀の間であり、日本でいう弥生時代に当たります。弥生時代というと、ようやく稲作が伝わり生活も組織化し、米を蓄え生活が安定してきた時期です。
 この時期に古代メソアメリカでは、都市の維持発展に欠かせない安定的な農耕の定着以上に「もの」の制作と信仰に熱量を割いていたのです。

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図4 心臓を食べるジャガーの図

 ケツァルコアトル以外にも、ジャガー(図4)やコヨーテなど、当時それぞれに重要な意味を持っていた石像やレリーフ(図5)を鑑賞しました。今から約2000年前、日本で言う弥生時代に中南米で祀られていた偶像を今、目の前で美術として鑑賞しているという状況に、好奇心が掻き立てられました。王権をも揺るがす/支える力が込められていた、当時の「もの」の価値。その「もの」本来の役割を帯びさせていた現地の環境で、ピラミッドと併せて見なければと、もう気持ちが中南米へと向いていました。

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図5 アステカ王の玉座(レプリカ)

 それまで「美術」だと思っていたものは、その多くが額縁内で鑑賞が完結していました。しかし中南米美術館の展示鑑賞中は、地球の反対側にある中南米に思いを巡らせ、さらに現代から古代へと思いを馳せていたのです。当時そこに花開いた文化、そこで生きた人、今生きている人にまで興味が湧いたのです。それまで「美術」だと思っていたものの鑑賞中にはなかったことでした。

 さっそく現地に行く気満々になり、ガイドブックを読み漁ったり旅行代理店で予算を聞いてみたりしましたが、航空券が予想を遥かに上回る額で断念。近場でこういうタイプ(古代遺跡など)の美術が見られるところはないか探し、この翌月2014年9月にカンボジアのアンコールワットへと行くことになります。

マチュピチュ村での洪水

 ところでこちらの美術館、元の名を森下美術館と言います。現館長の祖父にあたる森下精一氏が商用で中南米を訪れたとき、古代文明の虜になって蒐集した膨大なコレクションが収蔵され、その一部が展示されています。森下美術館では展示内容がわからないため、中南米美術館に改名したとのこと。


 まだ記憶に新しい2022年1月21日、中南米を代表する遺跡、マチュピチュの麓にあるマチュピチュ村を洪水が襲いました。このことから、マチュピチュ村の初代村長を務めたある日本人と、後に中南米の虜になる男たちとの出会いの連鎖、そしてこの美術館ができるまでの経緯を思い起こさずにはいられません。


 2022年1月21日、南米ペルーのマチュピチュ村で川の氾濫による洪水が発生し、24日までの間に900人が避難、1人が行方不明となりました。マチュピチュ遺跡は標高約2400mにあり被害はありませんが、当面は遺跡まで行く鉄道の運行が停止されます。2020年にはコロナ禍で一時閉鎖し、再開した矢先の出来事です。実は2010年にも同様の被害に見舞われていて、当時は2500人が救助され、5人が死亡しています。


2010年の洪水


マチュピチュ村の初代村長は日本人だった

 1911年、インディ・ジョーンズのモデルと言われるアメリカ人考古学者ハイラム・ビンガムによって発見されたマチュピチュ遺跡。15世紀に栄華を誇ったインカ帝国の要塞都市として知られる世界遺産にも登録されている都市遺跡です。上述したマチュピチュ村というのは、その麓にある村です。
 マチュピチュ村は1947年にも川の氾濫による大きな被害に見舞われており、その際村の復興に尽力したことから、ペルー政府によって村長に任命されたある日本人がいます。
 明治28(1895)年に福島県大玉村で生まれた野内与吉という人物です。野内与吉が南米に渡ったのは、ハイラム・ビンガムがマチュピチュ遺跡を発見した6年後の1917年。各地を転々とした後、マチュピチュ村に定住したのは1923年。当初はまだ遺跡の存在を知らなかったようです。その後ペルーの古都クスコからマチュピチュ村まで開通した鉄道の拡張工事に携わり、村に水道を通し、水力発電設備を自作し村に電灯を灯し、温泉を掘り起こしホテルも開くなど、与吉は村の発展に人生を捧げました。


野内与吉と天野芳太郎、天野芳太郎と森下精一

 1935年ホテルをオープンする頃にはマチュピチュ遺跡を隅々まで知り尽くしていたため、学者や探検隊などが遺跡を調査に訪れる度に与吉はガイドをしていました。同年マチュピチュを訪れた日本人実業家、天野芳太郎が訪問した際にも彼をガイドしています。
 天野は中南米各国で事業を起こし、いずれも成功していました。マチュピチュを訪れたのは、ハイラム・ビンガムが書いた本を読んで帯びた熱をそのままに鉄を熱いうちに打ったことによります。与吉のホテルに宿泊しながら1週間に渡り、彼の案内によって遺跡を調査しました。
 その後天野は古代中南米美術の蒐集を進めますが第二次世界大戦勃発によって蒐集品や財産を募集され、日本に送還されます。しかし戦後再びペルーに渡り、立ち上げた会社は成功し古代中南米美術の蒐集を開始しました。


 1964年にはリマ市に天野博物館を開設し、さらにその5年後の1969年にそこを訪れた森下精一が古代中南米美術の虜になり、彼も文化遺産の蒐集を開始することになります。そしてついに1975年には森下も彼の美術館である森下美術館を地元岡山の備前市日生に開設しました。森下美術館改めBIZEN中南米美術館は今日に至るまで、国内で唯一の中南米専門の美術館です。

図50 (2)




参考文献

1.野内セサル良郎・稲村哲也、『世界遺産マチュピチュに村を創った日本人 「野内与吉」物語』ー古代アンデス文明の魅力ー、新紀元社、2016
2.古代アンデス文明と日本人ー放送大学特別講義と展示会、放送大学研究年報第33号、pp79-95、2015
3.現代芸術研究所編、『現代に華開く古代アメリカの文化と美術 森下美術館図録』、森下美術館、1976


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