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右脳と左脳に挟まれて、ゆられて

私は高校卒業し北海道にある美術大学に進学した。影響をを与えられるようなメッセージ性のあるアートをブランドにするという夢があった。

ブランド作りに興味があった私は新卒でアパレルブランドに就職。3年間勤めたがやっぱり絵を描く夢が諦めきれず、東京にでることを決意。
当時はまだインターネットやSNSが盛んではなかったため、情報収集やクリエイティブな仕事をするならば東京に行かねば!と思っていた。

<右脳時代>
お恥ずかしい話ですが、学生時代から上京した24歳まで“左脳を使ったら作品に影響する“と思い込んでいた。右脳を使うことに意識をむけて、感性を研ぎ澄ますことがより良い表現と作品作りに繋がると信じていた。そのため論理的思考や分析、科学的な知見といった本を読むことや学ぶことはやや避けていた。1+1=2のような「正解があること」がとにかく嫌で、数学はギリギリのラインしか勉強していない。(今考えるともう少し勉強しておけばよかった..笑)

なぜそう思うようになったのか。高校時代に出会った美術の先生が大きい。私の作品を認めてくれて美術大学を進めてくれた。そして地球に生きることの面白みを教えてくれた恩師だ。学校で先生は変わり者扱いされていた。

「生涯不良でいるんだ、不良ってのは悪いことすることじゃない。大人にならないこと」「いま出会う音楽や本や好きなことは、一生のものになる。たくさんの音楽や本に出会おう」と社会にあらがいながらも自分の好きなことを見つけて追求しよう、と教えてくれた。(今考えると先生はロック好き。あれらの発言はロックの影響だったのかもしれない..笑)

落花生を“ひと粒“渡され何時間も落花生を見つめながらデッサンする授業があった。虫眼鏡で観察しないとわからないようなクボミや傷、模様がある。そこには落花生の世界が存在した。何気ないものにもちゃんと意味があるんだ、いったん立ち止まり、じっとひとつを見つめること。一面だけではなく様々な面からみることでその落花生は表情を変える。そんなことにも気付かされた。

そして札幌からひとり、ほぼ何も持たずに上京する。たくさんの人に出会い、小さな個展やライブペインティング、絵のお仕事もチラホラいただけた。テレビ東京の番組内でブランドプロデューサーオーディションでセミファイナルまで残り・・・落ちた。
私は東京で夢に対してがむしゃらに動いていたが、この落選をきっかけに「頑張り方が違うんだな」と感じ始めた。見せ方、売り出し方、ブランディングが必要なのだ、つまりこれは左脳的なハナシ。(あとは圧倒的な執着心かな〜と今になって気付く)

「右脳と左脳」バランスが重要なんだ!左右脳。右脳派人間には左脳派の参謀をつければ最強ということなのか、とハッとした。

左脳を鍛えること=社会を知り社会で学ぶため、業務の幅が広く学びが多そうだというイメージで中小企業に飛び込む。

ここから私は<左脳時代>に突入する。  #つづく

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