「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」
よく、この世の中には、「考えさせられる」という表現がなされることがあったりする。
「これは「考えさせられる」話だ。」
「それにはなかなか自分も「考えさせられる」ね。」
・・・・・などなどといった感じだ。
人間は、「何かに強要されたりして・何かに強制されたりして、「考えさせられる」という表現を使う」というよりかは、むしろ、「「考えさせられる」という表現自体を、自発的に使用するような、「自発的に考える生き物」なのだ」と言った方がしっくりくるのかもしれない。
なお、それでも、私たち人間は、「考えさせられる」という表現を使用したりする。
ここにおいての、「考えさせられる」とは、いったい何なのだろうか?
人間は、「自発的に物事を考える生き物」だというのなら、何が、「人を考えさせている」というのだろうか?
なぜ、「自発的に物事を考える生き物」である人間が、「考えさせられる」という、「○○させられる」という、「強制・強要の表現」を使うのだろうか?
それは、自分が、「思わず・考えずにはいられない」「このまま、考えないままだと、夜も、ぐっすり眠ることができない」というような、「心残り」を指して、「考えさせられる」という表現を使っているのだと思われる。
「これは、とても自分にとって、「考えさせられる」話だ」
そう言う場合は、それは、その人自身にとって、その話は、「身につまされるものがある」ということを意味する。
事実、それが、その人にとっては、「身につまされるものがある」というのなら、恐らく、そういった表現を使用することだろう。
「「それ」について「考える」ということは、「自分にとって、切実なものがある」「自分にとって切実な思いがある」」
そんなときに、人は、「考える」という行為が、「外部からの指示」や、「強制」ではなく、「自分自身の、「自発性」を持って、「考えさせられる」」という、表現に変化するのだろう。
そこには、人間が根源的に持っている、「知識欲」というものがある。
古代ギリシアの哲学者で、「万学の祖」とまで呼ばれた、かの、アリストテレスは、「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」という言葉を残している。
その「すべての人間」の持っている、「生まれつき」の、「知ることを欲する」という、「欲求」や「衝動」が、まさに、私たち人間に、「考えさせられる」という表現をさせているのだ。
「すべての人間」が、「生まれつき」持つ、「知ることを欲する」という、この「根源的な衝動」の持っている「パワー」には、凄まじいものがある。
この、「知ることを欲する」という、「根源的な衝動」の持っている「パワー」は、一人の人間を「成長させる」ということだってできるし、
それに、この、「知ることを欲する」という、「根源的な衝動」の持っている「パワー」は、技術を「発展」させ、文明までもを、「進歩」させてしまうのだ!
そう考えるのならば、古代ギリシアの哲学者で、「万学の祖」とまで呼ばれた、かの、アリストテレスが、「すべての人間」を、「生まれつき、知ることを欲する」と評していたのは、実に、「的を得ていた」と言わざるを得ないだろう。
今回はここまで。
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