「「なぜ」という、「思考」」

この記事を読んでいるあなたは、「崇高」という、人間の持つ感情の一つを、ご存じだろうか?

「崇高」――――――――――――――――――――――――――――――

それは、私たち人間が、例えば、巨大な山脈などの景色を、見た時などに、心の奥底から湧き上がる、あの、「畏敬」とでもいうべきような、「感情」のことである。

フランスの哲学者のアンリ・ベルクソンは、「崇高」という感情について、
「「人間」という生き物は、「限りなく、巨大なもの」や、「限りなく、広い空間」というものを、目撃した時や感じた時に、―――――つまり、そこに「無限」だとか、「永遠」というものを、目撃した時や感じた時に、―――――「崇高」という感情が沸き上がる」といったような趣旨のことを、講義している。

(その講義の内容を、記録した上で、まとめたノートを、書籍として読んだ記憶がある。)

「限りなく、際限なく、大きいもの(広いもの)」―――――――――――

そういったものを、目撃した時や実感した時に感じる、あの「感情」―――

それこそが、「崇高」という感情だ――――――――――――――――――

では、私たち人間は、なぜ、「限りなく、巨大なもの」や、「限りなく、広い空間」というものを、目撃した時や、それを感じ取った時に、―――――つまり、そこに「無限」だとか、「永遠」だとかいったようなものを、感じとった時に、―――――この「崇高」という、「感情」を、抱くのだろうか?

この「問い」は、極めて難しい問いだろう。

「人間は、なぜ笑うのか?」

つまり、何に対して、人間は、「笑う」ということをするのか、その「笑う」ということをする際の、「共通点」となっているものは、一体、何なのか?

私たち人間に、「笑い」という、「感情」が、生来的に備わっているのは、なぜなのか?

「私たち人間に、「笑い」という、「感情」が、生来的に備わっている」という事によって、私たち人間には、それが、一体、どういった意味合いを持つ事になっているのか?

それが、どういった「機能」を、私たち人間に対して、果たしているのか?

・・・・・などなど、とにかく、ありとあらゆる「疑問」が、止まらなくなってしまう。

ただ、今、いえることが、一つあるとするならば、ここに共通しているのは、「「なぜ」という、「思考」」だろう。

この、「「なぜ」という、「思考」」を持つ、という事によって、私たち人間は、その思想や、哲学までをも、探求するということができている。

先ほど紹介した、フランスの哲学者のアンリ・ベルクソンも、この「笑い」という、私たち人間の持つ、「感情」に対して、哲学をした、『笑い』というタイトルの、哲学の本を、執筆している。

恐らく、彼も、―――――フランスの哲学者のアンリ・ベルクソン本人も、―――――とにかく、この「「なぜ」という、「思考」」を、幾度となく、繰り返し続けてきた事だろう。

そうして、あの、「講義の内容を、記録した上で、まとめたノート」や、『笑い』の執筆ということに、繋がったのだろう。

この、「「なぜ」という、「思考」」の、「結論」に、至るためには、とても、とても長い、「思考の道のり」を、得なければならなかったりもする。

その、「思考の道のり」は、険しかったりしていて、決して、平たんだったりはしないのかもしれない。

だが、その、「「なぜ」という、「思考」」の、「答え」を、得た時の、「喜び」は、「「なぜ」という、「思考」」が、大変だった分だけ、「ひとしお」なことだろう。

この記事を読んでいるあなたには、是非とも、この、「「なぜ」という、「思考」」をする事で、自分自身の人生を、「より、深みのあるもの」にしていってほしい。

以上が、今回の記事のタイトルの「「「なぜ」という、「思考」」」の、説明・解説になる。

今回はここまで。

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