「何」に「価値」を見出す「生き方」を選びますか?

「うっとりするほどの未来」を、「青写真」として心の中に持つという事は、私たち人間にとって、「「大衆運動」の原動力」にもなりうるし、それと同時に、「歴史を大きく動かしてしまう原動力」にもなっていた。

まず、この「うっとりするほどの未来」とは、一体、何なのだろうか?

それを、私たち人間が持つとしたら、一体、どんなことが、私たち人間に、起こるのだろうか?

「うっとりするほどの未来」とは、主に、私たち人間が、心の中で思い浮かべる、「水平線の、はるか彼方の、先にある、「バラ園」「お花畑」」のようなものを、ご想像していただければ、構わない。

私たち人間は、「うっとりするほどの未来」には注目するくせに、「自分の家の近くの、公園に咲いているバラの花」には、「気が付かない」ばかりでなく、最悪、そもそも、「見向きすらもしない」。

私たち人間は、「うっとりするほどの未来」にあこがれて、しかも、それを追い求めたり、実現したりする、といった事をするために、「大衆運動」にすら身を投じるというのに、「自分の家から歩いて、すぐ近くにある丘の上から見える、夕焼けの美しさ」には、気が付かないし、見向きもしない。

このように、私たち人間は、身の回りの「価値」に気が付かず、見向きもせずにして、「隣の芝生」の色が、「青いのか、どうか」を気にしたり、「はるか先の、遠い場所にある「何か」」に関心を持ったりしている。

私たち人間は、「自分の「価値」」に気が付かないし、気が付いていないし、ましてや、その「価値」を、受け取れていない。
私たち人間は、「自分の身の回りの「価値」」に気が付かないし、気が付いていないし、ましてや、その「価値」を、受け取れていない。

私たち人間の、こんな「現状」の中で、もしも、この記事を読んでいるあなたが、「自分の「価値」」や「自分の身の回りの「価値」」に、「気が付く事ができる」、「その「価値」を受け取れる」という人間だったとしたら、一体、どれほどの、周囲との「アドバンテージ」になるだろうか?
どれほどの「良い人生」を送れるようになるだろうか?
この記事を読んでいるあなたは、それをご想像できるだろうか?

遠い先の「価値」ではなく、「今の「自分」」と、その「今の自分の身の回りの「価値」」―――――――――――――――――――――――――――

それを忘れてはいけないし、私たちは、その「価値」を見つけ出せるようにならなければならないだろう。

さもなければ、「全てがそうだ」とまでは言わないものの、歴史を見ても不毛なことの方が多い、かの、「大衆運動」の列に、「加わりたい」という抗いがたい「誘惑」にさいなまれるかもしれないからだ。

それは、「自分自身を放棄する道」でもあり、「自分自身に「価値」を見出さなくなった」という事の、「証拠」でもあるのだから。

"人間というものが自分のことを気にかけるのは、それがやりがいのある場合に限られるようである。やりがいがない場合には、意味のない自分のことを忘れるために、ほかの人々のことを気にかけるものである。"
――――――――エリック・ホッファー『大衆運動』(紀伊國屋書店)P.31

人間が、「「自分自身を放棄する道」を選んだ」、「自分自身に「価値」を見出さなくなった」という事は、「ほかの人々のことを気にかける」ようになる「兆候」と見てよいかもしれない。

逆に、「ほかの人々のことを気にかける」ようになったという事は、「「自分自身を放棄する道」を選んだ」、「自分自身に「価値」を見出さなくなった」という事の「サイン」と認識してよいかもしれない。

いずれにせよ、「私たち人間が、選ぶことができる「生き方」」というのは、「自分自身に「価値」を見出す生き方」か「「ほかの人々のこと」に「価値」を見出す生き方」の2つに1つなのだろう。

「自分自身に「価値」を見出す生き方」
「「ほかの人々のこと」に「価値」を見出す生き方」

この記事を読んでいるあなたなら、どちらを選ぶだろうか?

また、どちらを選ぶことが、「「自分の人生のためになる確率」の高い選択」になるだろうか?

今回はここまで。

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