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命を使い切る

命は使うもの。

そう気づいたのは、今日からだいたい2か月前のことだ。

きっかけは曾祖母が亡くなったことだった。

曾祖母は108歳まで生き、大きな病気もせずに老衰によって人生の舞台から降りた。

なんというか、遺された私たち親族は哀しみより、曾祖母が自らの命を全うしたことに対する感銘の気持ちの方がはるかに大きかった。

曾祖母の告別式の前、私の母からこんな言葉を聞いた。

「ひいおばあちゃんは自分の命を全部使い切ったんだねぇ。血液も細胞も余すところなく使って。体のすべてが枯れるまで、与えられた命を使いこなしたんだね」

自分の命を使いこなす。自分の命を使い切る。

母のその言い回しが、私にはとてもしっくりときた。

曾祖母は穏やかでマイペースな人だったけれど、自分が誰かの助けになることがあれば、とても活動的な人だった。

「何のために自分は生きているのか」を問うても、たった一つだけの答えなど見つけられるはずはないし、

究極のところ、人間は何か目的があって生きているわけではないと私は感じている。

猫が子猫を産んで、その子猫が大きくなってまた新たな命をつないでいくのと同じように、人間がこの世に生を受けて生きていくのは生物の理(ことわり)だ。人間も生物として、生物の命のサイクルによって生まれてくる。

だから人間が生きること、つまり自分が生きることに何か特別な意味や目的など無いと思うし、

生きることに特別な意味や目的を持たせないほうが、爽やかな気持ちで生きられる気がする。

何より「何のために自分は生きているのか」ではなく、「どんなふうに自分の命を使おうか」を考えたほうが、生きることに多くの楽しみを見つけられると思うのだ。

だから私は最近、自分の命を使うことがとても楽しい。

「私は今日この世にいて生きているのだから、その命を使って自分と誰かの両方をハッピーにしよう」

今日は今のところ、どんなふうに自分の命を使ったかな?

今日はパートナーに、彼の大好物の栗のぜんざいを買ってきた。

仕事先で一緒に働くあの人と、気持ちの良い挨拶を交わし、ちょっとした楽しい雑談をしてきたな。

自分の命を使って、自分と誰かに小さな歓びと、ちょっとした感動を共有していくこと。

それを命が尽きるまで毎日続けることで、自らの命を使い切った達成感を人生の最期に味わえたら、この上なく幸せだと思う。

そんな人生にしようと、私は決めている。


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