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八丈島のおばちゃん

初めての“サーフトリップ”は、八丈島だった。

僕にとっては、サーフィンをしていなかったら旅の目的地として候補に挙がることもなかったかもしれない、アナザー東京だ。

サーファー御用達の宿「友喜荘」

宿泊した「友喜荘」は、おばちゃんが1人で切り盛りする、サーファー御用達の民宿だった。

宿泊客は、八丈島空港に乗り捨てられた友喜荘の軽トラに乗り込み、車内に隠されたキーを見つけてエンジンを始動し、30分ほどかけて現地に向かう。初めて訪れたとき、そのワイルドなスタイルに度肝を抜かれたものである。

八丈島のポイントは、カイザー、サントス、タコスの三つに分かれていて、ビジターはエントリー場所から最も遠いタコスポイントでサーフィンをするのが流儀だったから、波に乗る前に10分〜15分ほどパドルをしなければならなかった。当時の僕は初心者に毛が生えたようなものだったから、実際はもっと長い間パドルをしていたかもしれない。

それでも、玉石のボトムが生み出す波は極上の一言。その時のトリップではウネリもヒットし、セットで頭〜頭半のマシンブレイクが出現していた。当時の僕には少々デカすぎて決して満喫できたとは言えないけれど、今思うと僕の全サーフトリップの中でも1、2を争うクオリティだった。

ポイントへは車で移動

友喜荘は八丈島のサーフポイントから最も近い宿だったが、それでもサーフィンをするためにはポイント至近の駐車場まで、海沿いの漁師道を車で数分移動する必要があった。

その移動にも、宿泊者は友喜荘が所有する車を借りることができる。僕らのグループは6人いたから、いつもデカいハイエースを使わせてもらっていた。

運転はメンバー内で適当に回していたから、それまでスーパーロングのハイエースなど一度も運転したことがなかった僕も、何回かはハンドルを握る必要があった。

まあ、人もほとんどいないし、ほんの数分の道のりだからなんとかなるだろう。そう考えていたものの、漁師道の幅は狭い。当然、時々漁師や宿泊客とすれ違う必要があった。

そして、何日目かの朝にそれは起きた。

接触事故

その日の朝は、僕が運転担当だった。6人分のボードと人間を詰め込んでポイントに向かうと、ちょうど右カーブに差し掛かったところで前方から軽トラが走ってきた。それも、そこそこの速度で。

ただでさえ狭い僕の視野は、慣れないハイエースの運転のせいでさらに狭くなっていた。そして、その瞬間はとにかく軽トラと接触しないことだけしか頭になかった。つまり、左に膨らんだ。道は狭い右カーブになっているのに、である。

軽トラは難なく僕の真横をすり抜けていったが、その瞬間、左前方に嫌な衝撃が走った。

「ああ〜、アリオやったなこれ」

仲間に言われるまでもない。その場で車を停めて外に出ると、左側のバンパーが護岸の側壁に接触していた。

幸い速度は出ていなかったからなのか、バンパーは若干外れかけていたものの、パッと見はそれほど目立たず、車を動かす分にはなんの問題もなかった。

僕の気持ちは完全に沈んでいたが、いい波を目の前に仲間の気持ちは静まるはずもなく、とりあえず僕は運転席へ戻り、そのままポイントへ向かったのだった。

なかなか言い出せない

宿に戻ったら、すぐにおばちゃんに言おう。

そう考えていたはずなのに、極上の波に何本か乗るうちに、その決意はすぐに揺らいでいたのだと思う。

1ラウンドを終えて宿に戻ったとき、僕は一応、おばちゃんの姿を探した。だが、おばちゃんは僕らを含め3グループいた宿泊客の食事の準備にかかりきりだった。

なんとなく、声をかけるタイミングを逃した。

見た目はあんまり分からないし、車は走るし、大丈夫じゃないか?それにもともとボロボロの車だ——

自分勝手な考えが頭をもたげてくる。

結局、事故った当日も、その次の日も、僕は何も言い出せずに波乗りを続けた。でも、心のどこかに常にトゲが引っ掛かっているようで、いい波に乗れても気持ちは晴れなかった。

そして、最終日前夜を迎えた。

友喜荘での最後の食事を終えたとき、仲間の1人が僕に向かって言った。

「アリオ、言わなきゃダメっしょ」

——ああ、そうだ。こんなの真っ先に言わなきゃいけないことなのに。

なんとなく有耶無耶にしてフェイドアウトしてしまいそうだった僕を、仲間が押し戻してくれた。

今でも蘇る、おばちゃんの言葉

ついに僕は、台所で一心不乱に食器を洗っているおばちゃんに声をかけた。

「おばちゃん、ちょっといい?」

おばちゃんは食器を洗う手を止めると、不思議そうに台所から出てきた。

「ちょっと、あっちの座敷で」

不自然な僕の挙動に戸惑いつつも、おばちゃんは座敷までついてきて、僕と仲間の前に、ちょこんと正座した。

「実は…」

人間、いくつになっても自分の過失を謝るときは勇気がいるものだ。その相手が無垢な人であればあるほど。

僕の口からは、なかなかその次の言葉が出てこなかった。しかし、おばちゃんは決して焦れることなく、穏やかな表情のまま、まっすぐ僕の目を見て座っていた。

「実は、借りている車の左側のバンパー、壁に擦って、壊しちゃったんだ…ごめんなさい」

僕は、おばちゃんに向かって頭を下げた。隣の仲間も一緒に頭を下げた。

おばちゃんは、少し困惑した表情を浮かべた。それはそうだろう。車は大事な商売道具なのだ。サーファーを相手にするここでは特に。

「……いつ?」

困惑した表情のまま、おばちゃんは声を絞り出した。怒っている、というより、どこか悲しげな声だった。

「おとといの朝。ごめんなさい、なかなか……言い出せなくて……」

悲しそうなおばちゃんの表情を見ていると、僕の声は尻切れトンボになった。おばちゃんが忙しそうだったから、などとはとても言えなかった。

おばちゃんは悲しげな表情のまま、たっぷり10秒は虚空を見つめていた。僕にとってその時間は、永遠にも思えた。

次の瞬間、下を向いてた僕の耳に届いたのは、意外な言葉だった。

「私は、そうやって正直に言ってくれたことが、本当に嬉しい」

驚いて顔をあげると、おばちゃんは僕のことを真っ直ぐ見つめていた。

「ここで長いこと宿をやってるけど、車を傷つけても、何にも言わないで帰っちゃう人が本当に多くてね。だから、私はあなたがこうやって正直に言ってくれるだけで、本当に嬉しい」

おばちゃんはもう一度繰り返した。

「あの、弁償は……」

「そんなのはいいの」おばちゃんは静かに首を振った。「あなたが正直に言ってくれただけで——」

僕は、仲間と、おばちゃんに救われた。それと同時に、二日間告白できずにいた自分を恥じた。下手したら、おばちゃんが言った「何も言わないで帰っちゃう人」になっていた。

あれから20年弱。

仕事でも家庭でも、誰も見ていないところで何かをやらかしたとき、そのまま隠してしまいたい失敗を犯したとき。いつも友喜荘のおばちゃんのあの言葉が、脳裏を過ぎるのである。

「正直に言ってくれるだけで、本当に嬉しい——」

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