だから私は、愛を言葉で伝える
振り返ってみれば、結婚していた時、愛なんてこれっぽっちも分かっていなかった。築き上げていくものだろうけど、その前にリタイヤしてしまった感があるから、仕方ない。後悔はまったくしていない。35歳でシングルに戻ってからの人生で、様々な愛に触れ、理解し、今もなお学んでいる途中である。
母との関係での学び
子どもは母親の愛がほしくて、喜ばせたくて、気を引きたくて行動することがある。幼い頃はその、良かれと敷かれたレールに乗るのも悪くない。しかし、遅かれ早かれ自我は出てくる。年頃になり、進路、就職、結婚、子どもがいるいない、離婚etc…ことあるごとに、母と私はぶつかるようになった。
いわゆる団塊世代の親は、物質的で条件的な理想像を明確に持っていた。これも娘に幸せになってほしいという親心からきたものだと、今の自分は理解できるが、当時は「何故分かりあえないのか?」「ありのままではダメなのか?」と本気で悩んでいた。
親(または他人)の描く「幸せ像」から外れている自分は、幸せではないのか?
No. 幸せは自分で感じるもの。
「幸せ像」はただの「像」であり、
本当はそのままで愛されていることに気付く瞬間はやってくる。
目隠しをぱっと外されたように、「そうだったのか」とその瞬間は不意にやってくる。時間がかかってこじらせてしまった時期もあったけれど。でも「理解しよう」「理解してほしい」と正面でぶつかってきたあれこれは、その後の人生の様々な場面で生きている。
私の場合は、とても心がやさしくて「幸せの像」を絵に描いたような兄が、働き盛りの年齢で亡くなった時に、その気付きの瞬間はやってきた。家族で悲しみに打ちひしがれたその時に、何もいらない、ただただお互いの存在そのものが愛であることに気付かされたのだ。
そんな辛い体験を通さなくても、そのままで愛されていることに気付くチャンスは、本当はそれ以前にたくさんあったのだと思う。でも離れて暮らしていたりコミュニケーション不足になれば、なかなか難しい。「きっとこうだろう」と諦め自己完結してしまいがちになる。何気ない電話でもメールでも手紙でもいい、「伝える」「受けとる」ということがとても大事なのだ。
そして、
当たり前のように生きているけれど、明日のことなど誰も分からない。
もっと先のことなんて、なおさらだ。当たり前のように生きていることは、奇跡の連続で成り立っているのだから。
だから私は、大切な人には「大切に思っているよ」と、言葉で伝える。会えるときに会っておく。その人のために自分にできることがあればする。あの時伝えておけば、会っておけば、やっておけば、と後悔だけはしたくないから。
数年前、何かの時の会話で母がこう言った。
「あなたは自分の足で、自分の世界、自分の幸せを切り開いていったよね」
何事もなかったかのように、茶を飲みながら、さらりと言ってのけた(笑)悶々としていた若かりし頃の自分が聞いたら、激しくコケるか激しくツッコんでいたことだろう。なんて長期に渡る壮大なコントなんだ!!!
ちゃんと認めてくれていたのである。そしてそれを言葉で伝えてくれた。あほらしいやら、何やらで複雑な感情はあったけど、心の奥にじんわりあたたかいものが広がった。
愛の学びは続いていく。
今日も愛を込めて
ciao ciao ciao
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