「〜さえあれば」という考え方は良くないよという話

初めまして。ろどりゅうと申します。

noteは初めてなので、稚拙な点も見受けられると思いますが、どうか温かい目で見守って頂けると幸いです。

早速本題に入りますが、あなたは「〜さえあれば」と考えたことはありますか?

「お金さえあれば」
「友達さえいれば」
「恋人さえいれば」

色々ありますが、こういった無い物ねだりの考えは、誰しもが一度は抱いてしまうものです。

もちろん私も例外ではありません。

そして、こうした考えの根底には、大なり小なり「充実したい」「幸せになりたい」「苦しみから逃れたい」といった願いが込められているものです。

しかし、私はこうした考えはよろしくないと考えています。

私が考える理由としては、どんなに欲しい物を手に入れても、それだけでは苦しみからは逃れることは出来ない。
そして、欲しい物を持ってる人は、持ってる人なりの苦しみを抱えてるということです。

お金

お金はあるに越したことはありませんが、それが残業などの厳しい労働環境下で得た物である場合、身体を壊す危険性があります。

年収の高い男性との結婚を望む女性も少なくないですが、いくら夫の年収が高くても、計画的にお金を管理することができなければ、いくらお金があっても足りなくなるでしょう。

また、子供を育てるともなれば、食費、学費、お小遣い、医療費、etcと、掛かる費用は馬鹿になりません。

友達・恋人

友達・恋人についてですが、いると確かに刺激的です。

しかし、友達や恋人と遊んだりするのにはお金や時間が掛かります。

そして、こうした関係を作ると、少なからず面倒な人間関係というものが生まれます。

価値観の違い、金銭の貸し借り等のモラルのない頼み事、同性同士の妬み嫉み、性行為における責任など。

結婚した人に至っては、家事や育児など、生活上の責任が一気に重くなります。

一昔前は「男は結婚して一人前」という言葉があったらしいですが、はっきり言ってこんな言葉は、結婚がゴールと言ってるようなもので、個人的には馬鹿馬鹿しい話です。

先述の通り、結婚後に掛かるお金は馬鹿にならず、責任も重いので、今時こんな言葉を押し付けるのはよろしくないと私は考えています。

このように、はっきり言って、無いものを手に入れただけで苦しみから逃れることは出来ず、お金がある人にも、友達がいる人にも、恋人がいる人にも、その人なりの苦しみがあるのです。

ここで余談ですが、毎年クリスマスが近づくと、「性の六時間」などと言い、クリスマスにイチャイチャしている所謂パリピ・リア充を妬むような一種のムーブメントが巻き起こります。
一種の憂さ晴らしだとは思うのですが、そうしたムーブメントに乗っかる人達は、果たして恋人が出来ればその憂さが晴れるのか、私はそれが疑問でなりません。

だったらどうすればいい?

これは非常に難しい問題で、ケースにも大きく左右されるので、万人に対する明確な答えというものはまずないと思います。

ただ一つだけ言えるのは、苦しみからの逃避を自分に無いものに対して求めず、苦しみと戦い続けることだと思います。

友達がいない苦しみを乗り越えた先には、友達がいる人の苦しみがあり、恋人がいない苦しみを乗り越えた先には、恋人がいる人の苦しみがあり、お金がない苦しみを乗り越えた先には、お金がある人の苦しみがあるのです。

無いものを手に入れるために奮闘するのも素晴らしいのですが、それを苦しみからの逃避のために行うようでは、上手く行くはずがありません。

だからこそ、目の前のことをコツコツと積み重ねたり、無いものを無いと割り切る生き方を考えることが必要なのではないか、私はそう思います。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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