【千代田区】大手町の将門塚
今回は大手町の将門塚です。
神田明神編でふれましたが、訪問したいと思っていたこの地についに来ることができました。(現在は改装工事中です)
平安時代の武将、平将門公の首塚です。
平将門公は新しい天皇を名乗り、朝廷に対して反乱をおこし討たれました(940年)
もともとこの場所は芝崎古墳という前方後円墳があったようです。
私の出身は栃木県で、平将門公は栃木県である下野国を治めていましたし、またその制圧にむかった藤原秀郷公も下野国の役人でした。
ということで親近感があります。
例えば縁のゆかりもない坂本龍馬や西郷隆盛などの明治維新の偉人を崇拝するよりも
(明治維新を否定しているわけではありません。明治維新がなければ僕なんかは、いえほとんどの人は名字もなかったわけです。子供の七五三は東郷神社で行いました。東郷平八郎元帥万歳!何卒御加護をお願いいたします。)
地縁のある神様にも御加護を賜りたく。
最近では都内有数のパワースポットといわれていますが、背筋の伸びるピリッとした雰囲気はおなじ北関東の私に力を与えてくれる気がします。
東京時層地図や大江戸今昔巡りをみると、昔からこの場所はいろいろと変遷していた様子が浮かびます。
大江戸今昔巡りと東京時層地図
大江戸今昔巡りによるのこの地は徳川幕府の重鎮、酒井家の上屋敷で将門塚は酒井家によって祀られていました。池がありますね。この池は関東大震災まで残っていたようです。
地図に記載の雅楽頭忠顕は25歳で亡くなりますが、跡を継いだ養子の酒井忠績は幕府の老中、大老という最高職につきます。ウィキペディアによると近年無縁仏となり墓地は撤去が予定されているとか。
国の権力の中枢にいた人でも没後130年あまりで無縁仏。墓とは何か。そう考えたときいつも頭に浮かぶのは、「葬儀、墓地不要。天地を棺とし、星々を埋葬品としそれで十分ではないか」という荘子の言葉ですね。お墓にはあまりこだわりたくないなと思ってしまいます。
明治初期(1876~1886年、明治9~19年)には大蔵省となります。現在の将門塚の位置らしい場所は池のほとりですね。右側が明治初期で左側が現代です。
明治後期(1906~1909年、明治39~42年)大正期(1916~1921年、大正5~10年)右側が明治後期で左側が大正期です。池は小さくなった感じがしますが位置はかわらないように見えます。
戦前(1928~1936年、昭和3~11年)写真は昭和11年頃。関東大震災後一転、池も埋め立てられ、すべてが大蔵省の建物になってしまったようです。ここで後に伝えられる将門公の祟りが発生します。
将門公の祟りについて4つ。
代表的なものが4つあります。
引用は神田明神さんが出版している本です。
記録に残る最初の祟りは
940年、いわゆる承平天慶の乱に敗れた将門は敗死し、京都から首が持ち出されて現代の大手町の将門塚付近に埋められる。
将門の死後から10年後のくらいのこと(950年あたり)将門塚から異形の武士があらわれ、人々はそれを神として祀る。
これが津久戸神社(現在は九段下にある築土神社) その後、移転し、将門塚も荒れ果てる
1303年 将門塚のあった芝崎村は荒廃し人々は疫病にくるしみ、土地をおとずれた真教上人に人々は将門の祟りをうったえる。これが記録に残る最初の祟り。
2度目の祟りは
江戸時代は幕臣の酒井家によって丁重にまつられるも、明治期になり大蔵省の敷地となり、関東大震災で一帯が焼失。
整地し仮庁舎を建設すると、大蔵省幹部ふくめ役人が14人が亡くなる。
3度目の祟りは
仮庁舎を撤去し、鎮魂祭を毎年行うが、日中戦争などの政局の変化で次第に祭りはなくなる。1940年(昭和15年) 没後1000年に大蔵省本庁舎に落雷し、主要建物が炎上する。
当時の河田烈大蔵大臣は千年祭を行う。
そのときの石碑がこちらですね。
4度目の祟りは
戦後、焼け野原となったこの地にアメリカ軍は駐車場にすべくブルドーザーで整地していたが、運転手が事故で死亡。周辺住民がGHQに訴えて計画は中止になる。
駐車場と聞いてあまりピントこなかったですが70年ほどまえの航空写真を見て納得しました。結構空き地が多いです。
昔の資料(1920年代 大正~昭和初期)
ちょっと昔の資料もみてみましょう。
日本伝説研究 藤沢衛彦 著 (大鐙閣, 1925)
首塚の高さおよそ20尺(6m)周りは15間(27m)ばかり 塚の傍の古蓮池に沿ってモミの木の枯れ木があるのを、古は神木と言い伝えていた。西に向かって苔石敷級を登れば、また古モミの木の古塚を背を擁して立っているのを見る。塚前の東2間(3.6m)あまりに礎石がある。幅7尺長さ9尺ばかり、中心に今は古石灯篭を置いてある。おそらくこれその昔、塚前の常夜燈であったものだろう。この礎石は真教上人の蓮阿弥陀仏の謚號(おくりな)を刻んだ板碑をこの上に立てたものであること疑うべくもないというので、明治39年5月、東京神田区連雀町の神田明神氏子小栗氏珍蔵の舊板碑榻本(石刷の書物)を摸刻して再建せられた。 御手洗池というのは今にも残れる古蓮池で、面積凡そ250坪ばかり、その池中の南寄り口、千鳥岩ととなえられる岩があるが、その岩の傍らに古井戸がある。池水減ずる時はこれを見ることができるが、これぞ将門の首を洗いたる井戸ということである。
蓮池があって岩があった。これは震災前の地図と符合しますね。そこに水の湧き出ていた井戸があったと。そして石灯篭は、おそらくは酒井家上屋敷の常夜灯。
墓碑史蹟研究 磯ケ谷紫江 著 (墓碑史蹟研究発行所, 1924)
明治7年祀典を正し、将門の霊を摂社となさしむると。独り将門塚のみは以前としてこの地にあってその四周は諸侯の邸宅となり、主人は幾回か幾更するも、この塚のみは、動かず樓臺(高い建物)は幾回か焼失せしも、この塚のみは滅せず、星移り、物移り、大蔵省を置るるになっても、この塚はいままで残っていたのであるが、この震災後、行きてみるに、目下普請中とのことで、門中に入りがたし、遠方の處で見たるに「故蹟保存碑」のみは依然として残ってはいたが池は埋められてしまったらしい。
現存するのは「故蹟保存碑」には河田烈大蔵大臣の名前が入っていますから、河田が大蔵大臣になったのは1940年(昭和15年)なので1000年祭を機会に新しくしたのかもしれません。
将門公正伝 佃与次郎 著 (築土神社社務所, 1928)
将門の首塚は昔から大手町の大蔵省構内左手のひさご形の池に面したほこらの中に東向きにまつられて居た。将門の霊をまつる江戸名物の神田明神の祭礼当日は必ず神輿をほこらの前へかつぎ込むのはそのためだ。 震災後はほこらも焼け、池も跡形もなくなった。あらわになった首塚の石棺の上には主計局のバラックが建てられた。石棺の上へあった高さ5尺ほどの石塔は邪魔物あつかい、営繕局と主計局の内庭に雨風にさらされてすえられた。数百年続いていた明神様の祭当日の祝詞奉仕もそれっきりとなった。大蔵省内、殊に主計局と営繕管財局のお役人に病人がでる、けが人が出る、死人がでる、早速大蔵大臣をはじめ、営繕局の公務課長、矢橋工学博士と相次いで死亡したものが今日まで14人、けが人の方では時の政務次官竹内作平君、荒川事務官などを筆頭に一時は足を怪我せぬもの者はないほどであった。しかもケガは申し合わせたようにアキレス腱が切れるというしごく厄介なものだ。だれ言うともなしに、大蔵省内にこの階段が始まったのはこのころからである。「天慶の昔、新皇と称して関八州をあらした祟りだ」と気味悪く伝えられ、去年の3月には頑固者で通った片岡前蔵相も省内のうわさにまいってしまった。春にでもなったらお祭りをしようといっていたが、財界のパニックに内閣ごとぶっ潰れて、その後沙汰止みとなっていたところが、またまた最近営繕管財局の属官がぽっくり死んだ。もうたまらなくなって将門の過去帳のある浅草日輪寺でしらべると将門の命日は4月14日とわかった。それでその日に国費で法事をやるという昭和新怪談の由来である。(報知新聞昭和3年3月15日)
この時亡くなった早速大臣は大正15年(1926年)
祭事に参加した大蔵大臣は三土忠造(任期1927年6月2日 - 1929年7月2日)
関東大震災が転機となっている様子で、それまでは神田明神からお神輿が来ていたようです。
現在は改修工事中で令和3年4月末に新しくなるとの事ですので、次の訪問を楽しみに待ちたいと思います。
いまふと考えると、藤原秀郷にゆかりのある神社や逸話が地元近辺にあるので、将門公のところにお参りしてはマズイのではないかと頭をよぎりましたが、神田明神の神主さんが「神田明神と成田山新勝寺の両方をお参りしても問題ない」と言っているのでそれを信じたいとおもいます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?