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21,【千代田区】神田明神の祭神についてのあれこれ 明治大正昭和期の変遷

国立競技場から人骨が180体あまり出てきて、ネットでちょっと話題になった。

過去の地図を辿ると、国立競技場はもともと寺があった(江戸時代の地図では寂光寺、明治後期の地図では立法寺)

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新宿アルタも寺跡、新宿オペラシティも長楽寺というお寺跡にできた。

僕も最初はなんだこれ!と思ったけれど、そういう場所は探せば結構あるのでそれほど珍しい話ではない。東京は土地が狭いのだ。

(昔なら人骨が出てきたら工事が止まって工期が遅れるから、麻袋にかき集めて拝んで終わりにしていたと元工務店の方も言っていた。)

さて、今回は神田明神、湯島聖堂など。

お茶の水編で取り上げたが、その時は湯島聖堂や神田明神までは歩かなかった。

調べた結果、お茶の水駅前の神田川は江戸初期に作られた人工の川だったというのが印象的だった。

江戸時代は今のようにたくさん橋はかかっていない。川は地域を細かく分断していた。橋がなければ川の向こうは別世界だ。

東京は5000年ほど前の縄文時代には、陸地と水辺が複雑に入り混じったフィヨルドっぽい地形だった。

陸地だった場所は洪積層(こうせきそう)水辺だった場所は沖積層(ちゅうせきそう)という。

縄文時代は海岸線の岬を神聖視して、墓地を作ったり神を祀ったりしていたが、その後に時代が変わって当時の記憶がなくなっても、そういった場所はなぜか神社や寺が建っている場合が多いという説。

(今までの調べだと多くの寺院は江戸初期の江戸城城郭増築計画で方々に移転していたので、実際はそうとも言えない)


神田明神の場所はアースダイバーの理屈的には岬の聖地にあたる。

さて、どうなるか。

まずは神田明神と湯島聖堂の場所と地形図はこんな感じ。まさに崖といったところ。神田川が人工的に作られた川だということがよくわかる。

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境内には獅子が子供を千尋の谷に突き落とす石像がある。江戸時代に彫刻されたが、その後散り散りになって、最近になって再建したようだ。

獅子や狛犬の前ではガオーのポーズ

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境内には神馬のポニーもいる。都内でも神馬を日常的に養っている場所は見たことがない。
売店も繁盛している様子で、まさにご商売の神様として崇められるのにふさわしい盛況ぶりだと感じた。

右は神田明神の東側にある男坂 かなりの勾配があり、転げ落ちたらただではすみそうにない。浮ついていたら危ない。

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まず神社に参拝するにあたって、足元を見て慎重に自分自身と対面するということなのかもしれない。

北側にあるのが裏参道 これもなかなかの階段だ。

現在の東京の有名神社は明治以降に作られたものが多い。

靖國神社、東京大神宮、明治神宮、乃木神社、東郷神社など。

明治政府は近代化に着手すると同時に、神道の国教化を強力に推進してきた。

しかし、この神田明神の歴史は古い。

起源は730年 奈良時代の聖武天皇の頃のもの。奈良の大仏を造ったり全国に国分寺を建てたりしていた時代だ。

現在の大手町の将門の首塚あたりに出雲族出身の真神田臣(まかんだおみ)が創建した。(神田の宮)

びっくりな話だが、もともとこの地には古墳があったようだ。(芝崎古墳=前方後円墳だった)

祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)、いわゆる大黒様。

(のちに祀られることになる平将門は創建から200年あまり時代が降った940年に没している。)

近くに牛頭天王を祀る江戸神社があり、江戸氏の没落と共にのちに合祀。

1600年 徳川家康が神田明神に関ヶ原の戦いでの勝利を祈祷を命じ、9月15日の神田祭の日に家康は関ヶ原の戦いを勝利し、これ以降徳川家は神田明神を重用するようになる。

1603年に城郭の拡大に伴って駿河台に移転。

1616年にこの地に移転。

1657、1703、1772、1923年に災害にあうが戦火は免れている。

現在の祭神は大黒天、恵比寿天、平将門の三神だ。

神田明神にまつわる幾つかの話がある。

祭神となっている平将門についてのものが多い。

まず有名な将門の祟りについてのもの。

940年に将門は敗死し、京都から首が持ち出されて現代の大手町の将門塚付近に埋められる。

将門の死後から10年後のくらいのこと(950年あたり)将門塚から異形の武士があらわれ、人々はそれを神として祀る。

これが津久戸神社(現在は九段下にある築土神社) その後移転し、将門塚も荒れ果てる

1303年 将門塚のあった芝崎村は荒廃し人々は疫病にくるしみ、土地をおとずれた真教上人に人々は将門の祟りをうったえる。

これが記録に残る最初の祟りとなっている。

1309 上人は塚を修復し、法号をおくり、社殿を修復し、将門をまつり、神社を神田明神と改称。

江戸時代は幕臣の酒井家によって丁重にまつられるも、明治期になり大蔵省の敷地となり、関東大震災で一帯が焼失。

整地し仮庁舎を建設すると、大蔵省幹部ふくめ役人が14人が亡くなる。

これが2度目の祟りといわれている。

仮庁舎を撤去し、鎮魂祭を毎年行うが、日中戦争などの政局の変化で次第に祭りはなくなる。

昭和15年 没後1000年に大蔵省本庁舎に落雷し、主要建物が炎上する。
当時の河田烈大蔵大臣は千年祭を行う。

これが3度目の祟り

戦後、焼け野原となったこの地にアメリカ軍は駐車場にすべくブルドーザーで整地していたが、運転手が事故で死亡。
周辺住民がGHQに訴えて計画は中止になる。

これが4度目の祟り。

ということのようだ。

古地図で見ると確かに昭和10年の頃には将門塚は大蔵省の建物の中に入ってしまっている。

しまった、これは大手町編でやろう今回は神田明神だ。


祟りとは何か?

それはこの時代にも続いて存在している民間伝承だ。

2013年に山口県で集落14人のうち5人を殺害した事件があった。

それについてのルポ本が最近発売された。

(つけびの村 高橋ユキ著)

本の中のクライマックス部分で、生き残りの村人の中で本当の真実を知る人と自称する人が、数年間にわたってためてためて、今こそ真実をかたるときじゃ!さあ聞け!と言った言葉が

「氏神様の祟りじゃ」

だった。

散々引っ張って祟りかよと本の著者も唖然茫然とするのだが、そう考えるのが一番腑に落ちるかもしれない。

ちょっと信じられないような出来事は世の中結構ある。

神田明神は会社が七万社奉納をしているという事だった。現代でも信仰を集めている場所である。


その他の逸話は

・神田明神が昔の位置ではないのは、江戸城の北東の方角である鬼門を押さえるためと言われている。

・江戸時代は1万坪あったが、明治以降は4000坪となった。

・神田明神の紋が水の渦なのは、安房の漁民が江戸前島、現在の大手町付近に移住して漁業を始め、安房神社の祭神を擁した説がある。

・江戸幕府が神田明神を総鎮守神としたのは、朝敵といわれながらも、坂東の民衆には敬愛された将門を祀り、江戸ッ子に尊王思想をもたせないため説。

・明治にはいり将門は逆賊であることから、政府が将門を信仰から外すため、祭神の合祀から外して茨城の大洗磯前神社から小彦名命(すくなひこなのみこと) こと、恵比寿様の分霊を迎えたとき、当時の氏子や東京人は神職排斥運動をしたとある。

・神田明神は将門をまつり、成田山新勝寺は将門征伐のために建てられたので、両方お参りすると良くない説には神田明神の神主さんは「そんな事はないので安心してください」とのことだった。


湯島聖堂

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徳川家康が藤原惺窩(せいか)、林羅山を中心に儒学、朱子学を政治の中に取り込もうとした。

これが徳川幕府の教化政策の基調となる。

ざっくりというと江戸時代のサムライ教育はなんだっていうと朱子学なんだという事になる。

サムライというと「武士道とは死ぬことと見つけたり」の「葉隠」のイメージがあるが、こちらは佐賀の鍋島藩士が書いた急進的な本なので本スジではないのだろう。

1690年に現在地に移転。敷地は聖堂を中心に西側の東京医科歯科大学、順天堂大付近におよんでいたことは、前回のお茶の水編でも取り上げた。

1868年に官軍がはいり、242年間の昌平坂学問所の歴史に終止符を打つが、師範学校、高等師範学校、東京教育大、東京女子高等師範学校など変遷しているこの場所は、日本の学校教育史や日本の文教政策を語るには忘れる事は出来ない場所となっている。

近くのお茶の水の地下工事の際には、多数の貝殻、土器、石器、獣骨が発掘され先史時代の遺跡が確認された。

アースダイバーの高台聖地説は、神田明神よりもむしろ湯島聖堂が聖地なのではないか。

いや二つ合わせてとか。

16時には敷地内閉館となるが、手持ちの鈴を鳴らしながら係の人が閉館を告げる。子連れの我々に笑顔で会釈してくれる。

聖地と言っても打ち捨てられて荒廃した時代もやはりあるし、特別な一般的に住むには適さない場所が聖地化していったのではないか。

例えば縄文時代を想像すると、岬の突端は風当たりも強いし、住むには適さない。文明開化前を想像すると高台は生活用水が引けないので色々と不便な場所だ。

そこに埋葬地や貝塚ができた。と。後の世に住居としては使われないがある程度の広さがあるので、神社や仏閣ができた。そして今に至るというような。


関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)
わかりやすくて綺麗なので100年前の地図を使おう。太田姫神社と岩崎邸が確認できる。

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左上 ソラシティの南側にある幽霊坂
左下 岩崎邸跡 蜀山人終焉の地の標識
右上 お茶の水ソラシティを見上げる
右下 その道路の向かい側にある太田姫神社元宮の椋の木

岩崎邸跡と蜀山人終焉の地はソラシティ近辺だ。

岩崎邸にあった煉瓦を利用してこの標識は作られている。

この地は結構な変遷がある。

前回の調べでは明治以降は岩崎邸(三菱創業家)、岸体育館(岸は三菱の弁護士で体育協会の会長だった)、日立の建物、そしてソラシティと続いている。

蜀山人は江戸中期の狂歌師、劇作家

蜀山人は四谷の須賀神社近辺で階級を超えた会合(蜀山人はもともと御家人)を開いていて、世間から注目されていたようだ。

「生き過ぎて 七十五年くいつぶし 限り知られぬ天地の恩」

道路を挟んだ反対側のムクの木にはいもあらい太田姫神社の元宮とある。昭和6年に線路の拡張工事のために宮社は駿河台に移転した。

岩崎邸の南側にあった坂は幽霊坂と呼ばれている。江戸時代には幽霊坂という名称のつく場所は、木々が生い茂り暗く、周辺住民のゴミ捨て場だったということだった。幽霊が出たとかという話ではないようだ。

圧倒的存在感のお茶の水ソラシティ いやすごい。なんじゃこりゃ、大きすぎてよくわからない。

高さ約110m
地上23階地下2階
敷地面積9500m2

お化け施設だ。でもこれだけの巨大施設なのに地下がたった2階じゃもったいない気もするが、地図を見たら真下に丸の内線と千代田線が通っていた。東京は地下もすごい。でも一般人ではほとんど見る機会はない。

神田明神・湯島聖堂・ソラシティ 満足なブラり旅でした。

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