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【台東区】上野の山のノブレスオブリージュ

国立博物館の裏手には寛永寺がひっそりとあります。

現代では上野といえば動物園、上野公園、国立博物館など都民の学びと憩いの場ですが明治維新前、上野の山は全て寛永寺の敷地でした。

寛永寺はかつては徳川菩提寺として比叡山、日光山を統べる天台宗の総本山として強大な勢力を誇りました。

幕府は江戸城の鬼門である北東の方角に寛永寺を置いたとされています。

現実的に日光街道の防衛ラインだったのでしょう。

江戸城につながる東海道、日光街道、中山道、甲州街道。

・東海道はその最終地点である増上寺(徳川の菩提寺)

・中山道は巣鴨あたり増上寺領。

・甲州街道は四谷大木戸近辺の寺の集合体。

・日光街道はこの寛永寺。

ここに防衛ラインをおき、江戸城に入る前に迎え撃つという計画。

ちょっと違った形ですが、実際、江戸末期に幕府軍が寛永寺に立てこもって新政府軍と戦っています。(上野戦争・1868年7月4日)

上野戦争で焼野原になってしまった上野寛永寺は敷地没収、旧境内は公園になり廃止寸前でしたが明治8年(1875年)に再発足となりました。と言っても江戸末期とくらべると北側に申し訳程度に残るくらいです。

その後、関東大震災や戦災がありほとんど焼けてしまい、主に残っている構造物は徳川家綱と綱吉の霊廟の建築物です。

4代将軍徳川家綱の霊廟の建築物、厳有院霊廟勅額(ちょくがく)門

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5代将軍徳川綱吉霊廟の建築物、常憲院霊廟勅額門

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綱吉勅額門の前で東京時層地図をパチリ

明治後期の地図には一霊屋、二霊屋との表記があるので、一霊屋が徳川家綱、二霊屋が徳川綱吉だと思います。

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地図を見る限りではかなり広大な面積で、豪華だったようすがうかがえます。内戦と戦争は文化財を失ってしまいますね。残念。

上野戦争前に寛永寺の本坊があった部分は博物館になりました。

明42.3 最新東京名所写真帖 より

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現在の博物館です。

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博物館の西側には旧帝国図書館があります。

現在の名称は国際子ども図書館です。

明治と昭和の建築が入り混じる珍しい建築で、当時の財政難もあり当初の計画の4分の1ほどしか建築されていません。

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白黒写真は 明治44年 東京風景 より

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向かって左側が昭和の建築ということになるのでしょうか。

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多くの学生が学んでいますね。

階段の窓からは博物館の表慶館の屋根が見えます。

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館内にあるスウェーデンの植物学者リンネが愛用していた机のレプリカです。

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図書館の外壁にあるレリーフです。新しく出窓がつくられていて、そこから間近に確認できます。

古い写真でも確認できるので、昔のままの意匠なのでしょう。

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国立博物館横の池田家上屋敷表門 通称黒門です。

元は現在の丸の内3丁目に池田家上屋敷あり、そこから芝高輪台町の常宮御殿の表門になり→東宮御所→高松宮家→現在の場所。

江戸時代の貴重な遺構です。

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公園内の中ほどをいくと馬にのった銅像があります。

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小松宮彰仁親王 1846ー1903

軍人皇族として戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争で活躍。

昔は皇族が戦場に出ていました。古代ローマ帝国でも皇帝は戦場に出ていましたし、ローマ皇帝の半分くらいは戦死していたはずです。

まさにノブレス・オブリージュ noblesse oblige  「高貴さは義務を負う」の体現者の一人と言えます。

近くにはグラント将軍のレリーフもあります。

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ユリシーズ・グラント 1822ー1885

アメリカ18代大統領で南北戦争、北軍の将軍。

政界引退後は世界を回って日本にも訪問しています。

明治天皇と三条実美を交えた会談も国会図書館デジタル資料には残っていました。

現在の早稲田理工学部のところにあった競馬場にも訪問。

大統領訪問は明治政府の一大イベントだったことがうかがい知れます。

もうちょっと行くと有名な西郷隆盛像もありますね。

西郷隆盛は上野戦争でも司令官として活躍しました。

上野の山は江戸時代は徳川の重要拠点、明治維新後は現在もつながる明治政府の重要地点だということが、建てられているものを見ても確認できます。

なぜ上野の山は400年以上、時の政権の重要拠点なのか。

さらに上野の山には摺鉢山の古墳もあるんですよね。

6世紀の古墳時代から考えると1500年以上続く都内有数の聖域。

それが上野の山です。





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