執筆と僕

大学卒業を控えた今、文章を書く機会が今後減ってしまうのでは無いかという不安がある。
内定を貰ったのはメディア系の忙しい職種。
仕事に忙殺されて、書く事から遠ざかってしまう不安から、ここいらで執筆について考え直してみようと思い立った。



執筆は面倒くさい。
それならやる必要はないのだが、やはりそこから遠ざかってしまう事は不安なのだ。
考える事は楽しい。次は何を書こうかと巡らせるのはワクワクする。だが、書く事は面倒くさい。そこには形にするという大きな壁がある。
執筆にはインプットとアウトプットと呼ばれる作業が必要だ。作品や日々の思考から種を集めて、それを日本語に固着させる。
だが、執筆を単純にアウトプットという片仮名で表してしまうことに抵抗がある。
自分の中にあるものをただ出力するだけで文章を書けた試しがない。


執筆は化学実験のようなものではないかと思う。
思考を自分の中に貯める。最初は純度の低い大量の思考がその中には含まれているだろう。
それを濾過し、不純物を取り除く。
そうして醸造された思考の原液を、今度は日本語の上に垂らしてみる。
まずは1滴。日本語は赤や青などの色を持つ。
もう1滴。日本語は泡立ち始める。
さらに1滴。今度は凝固し、形を持ち始める。
そうして、自分の中に醸造された思考の原液と日本語を反応させていく。その反応を観察し、さらに別の思考を注ぎ込むことで反応を加速させる。そこには当初持っていた考察やら構想やらとは全く違った文章が生まれる。

つまり、自分の思考を日本語という触媒によって変容させていく。
それこそが執筆という作業の概要なのではないだろうか。


また、ここには大いなる面倒くささがある。
実際に反応させてみないと、この思考が文章になりえるのかが分からない。
用意して置くべき原液の量が足りないのかもしれない。原液の種類が少ないのかもしれない。そもそも、この思考は日本語とは反応しえないのかもしれない。
その不安を断ち切って、日本語という大海の前に裸同然で座り込まなくてはならない。
僕が執筆という作業を遠ざける第一の理由だ。

そしてより大きいのが、変容への許容だ。
執筆という作業は自身の思考を変容させる。その変容は脳と心に大変な負担を強いる。執筆前に持っていた自身を揺るがす程の反応を日本語の中に見てしまうためだ。
執筆前にはその変容に耐えうるだけの強度を持った精神的肉体を用意しなくてはならない。この肉体が少しでも虚弱であった場合には直ちに執筆は中断される。


強靭な肉体を持ち、思考の醸造に成功した暁には、そこには内在されたものとは全く違った文章が生まれる。それこそが僕にとっての執筆であり、書く事を望む理由なのだと思う。


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