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(5-1)十二月四日以降【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

◆(5-1)十二月四日以降 登場人物、その他

 … 父自身が治療目的で通っていた「触れずに痛みを取る会」の解散後、父はその会員たちの要請でヒーリングの先生( 気功師・真理を学ぶ会旧サトルの会 講師 )となっていた。宇都宮で「新 波動性科学入門」をテキストにヒーリングの講義をしていたが、講義を終えたその夜に脳内出血で倒れてしまった。

サトルの会 … 父の講師活動が広がっていくなか、各地の会員たちは「サトルの会」と言う名称を会全体の冠としてヒーリングの勉強会を行なっていった。このサトルは「 subtle ( = 微妙な、とらえがたい、微細な ) 」の意味で、いわゆる「 悟 ( さとる ) 」のことではなかったが、一般の方には分かりにくかったようだ。

 … ヨガと瞑想の講師。僧籍にあるが寺持ちではなく、むしろ独立独歩の行者の様相である。パドマヨーガ会(パドマワールド)の代表。母の瞑想体験「 とき子のインナートリップ ~ 直江幸法の瞑想体験(2001年) ~

中野さん … 父の勉強会に、栃木から東京まで通っていた勉強熱心な女性。明るく元気で、その場に華を咲かさせるような雰囲気を持っていた。

松村さん … 「触れずに痛みを取る会」にも参加されており、後に、父の勉強会にも熱心に通ってくれていた。高野山参詣もご一緒させて頂き、私が講師になるときに父がサポート役に任命してくれた女性。控えめで落ち着いた雰囲気、経験豊富なしっかりした方。

内野さん … 足を患って、父のヒーリングを受けに来ていた埼玉の女性。持ち前の柔らかい雰囲気で、通す側(ヒーラー)になってから頭角を現し、他の会員からも人気があった。一緒に高野山を参詣した一人。以前、私の「理趣経の勉強会」にも通ってくれていた。

岡松くん …  以前、父のヒーリングを受けに来ていた医学生。目黒の勉強会では講師役だった。この時の勉強は、後々、私自身のヒーリングに大いに役に立つものとなった。学生ときは父の勉強会にも参加してくれていたが、宇都宮で父が倒れたときには医師になっていた。

ヒーリング … 念と氣を流すこと・「通す」という行為・氣の実践

宇都宮の夜

 後から思えば、十二月四日は父にとっても、私にとっても、家族にとっても、会員にとっても、本当に大きな転機となってしまった。

 この日、宇都宮での父の講義は今一つ精彩を欠いていた。夕方には喋りも緩慢になっていて、足もやけに重そうだった。帰り際、疲れているのだろうと思い「大丈夫?」と一声掛けるも、父はいつもの「大丈夫、大丈夫」と返事をした。そして、退出の時間となり、お互い部屋を後にした。父と食事をすることを避けていた私は、その後、他の会員数人と宇都宮餃子を食べに出掛けた。

 食事を済ませて帰途に着くと、車は東北道の佐野インター辺りまで戻していた。その時、中野さんから電話で父が倒れたと報告を連絡が入った。父に代わることが出来て「大丈夫?」と尋ねると、「ダメ…」と返ってきてしまった。これから引き返すことを告げて、いつもならば、そのまま帰途に着けるはずの会員も連れ立って、宇都宮に取って返すことになった。心の中で「だから言わんこっちゃない、無理して格好つけてるからだよ」などと呟き、父の日頃の不養生を責めていた。もちろん、運転はしながらでも通すことは怠れなかった。

 父たちが食事をしていたレストランに着くと、すでに父は救急車で運ばれた後だった。同乗して宇都宮まで戻ってきてしまった会員たちは、途中連絡をつけることができ、あわせて戻ってきてくれた内野さん親子の車に振り替えてもらい、どうにか帰途に着かせることができた。こんな時にも協力してくれる内野さん親子に心から感謝をした。

 病院に着くと中野さんが待っていた。宇都宮の世話役としての責任感からなのか、ことの次第を様々説明してくれた。父は脳内出血とのことだった。「だから喋りや足に影響が出ていたんだ…」とすぐ理解したが、もう後の祭りだった。

 父はまだ救急搬送されたその場所にいて、その部屋に私は案内された。中野さんもその後を着いて来て、一緒にその部屋に入って行った。ベッドに横たわる父は意識が落ちつつあったようで、話しかけに応じられるものの、ろれつは回らなくなっていた。例えるなら、水槽の金魚が水面で口をパクパクさせているそれに似ていた。何とか母への伝言を聞き取ることには成功したが、その直後、中野さんは父に何度も頬擦りをし、励ましの言葉をかけ始めた。私はその光景をしばらく部外者のような視線で傍観しまっていた。そして「あぁ、やっぱりな…」と、妙に合点のいく感覚になっていた。もう言わずもがなである。

 ただ、今はそんなことはどうでも良かった。一旦帰って、これから起こることに対処にしなければならなかった。夜中の二時過ぎぐらいだったか、すっかり眠気も吹き飛んで、とにかく翌朝には母を連れてもう一度宇都宮に来る必要があった。そして、父の病状と今後の先行きを案じながら、ようやく病院を後に一先ずの帰宅の途についた。

父が入院した病院


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違和感

 翌朝、ほぼ徹夜の私は、母と昨夜のバタバタも冷め遣らぬ宇都宮に取って返した。病院に到着すると、再び中野さんが出迎えてくれた。この時、母はまだ父と中野さんの関係を知らなかったが、私には昨夜の中野さんの振る舞いが、いちいち脳裏をよぎっていた

 母は集中治療室に入った父との面会と、病院への手続きなどを済ませることが出来て、仮初めの一安心を得たようだった。中野さんは我々と昼食を一緒にしたり、夕方にはスーパーマーケットでの買出しにつきあったりと、ある意味とても協力的だった。私は昨夜のことが常に頭から離れず、中野さんに対する違和感をずっと持っていたが、母も中野さんがいない隙に「家族でもないのに、どうしてここまでつきあうんだろうね…」と呆れ顔で話しかけてきた。まったく同感だった。

 その後の夕食は母と二人で取ることができ、夜遅くはなったが、疲れた心身を休めにようやく家路に着くことが出来た。こうして十二月五日は過ぎて行った。


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行き交う想い

 翌十二月六日は母の電話で起こされた。
 母は「誰か、私を通している人がいるよ、すぐにやめさせて!勝手なことさせないで!」と、えらい剣幕で怒って言った。少し驚いたが、父が倒れたことで様々な人々の想いや「念」が飛び交っていたことは想像に難くなく、感性が良い母にすれば、あの文句ももっともだろうと思えた。

 私は、一昨日からの疲労で爆睡してしまい気づきもしなかったが、会員の動揺を落ち着かせるためにも、何らか対応をしなければならなかった。そして取り急ぎ、父の容態やスケジュール調整のお知らせに合わせて、勝手に父や直江家の人を通すことがないように通達を出した。この連絡は概ねメールで行ったのだが、それには松村さんや内野さんはじめ、多くの会員の協力があって成されたのだった。


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先の見えない看病

 父の宇都宮での入院生活は二ヶ月弱に渡った。この間は本当に考えさせられることが沢山あった。つい先日まで普通にいた父が、突如として完全な左半身麻痺となっていく姿。入院直後からの筋肉などの急速な衰え。話せなくなり、意識が落ちていき、さらには肺炎の併発による臨死状態…。先が見えない中での看病は何とも不安で落ち着かないものだった。いつ最後になるとも分からない状況を前に、一族にも父の病気と戦っている姿を見せる必要性を感じ、大所帯を何度も宇都宮に来させたりもした。そして、父を失うかも知れないという厳しい現実は、さすがに私を弱らせた。その不安感で一杯になると、家族に知られないようにシャワーを浴びながらむせび泣いて、どうにか心のバランスを取ったりした。すると「とにかく今こそ自分が役に立たなければ」という思いが湧いて、我に返る…そんなことを何度も繰り返した。見舞いをするとき、病院までの道すがらは遠隔をしながらだった。病院に着けば父の身体を拭いたり、動かしたり、通しながらのマッサージを行った。苛立ちを覚えはずの父なのに、その時、手は自然と動いた。


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素(す)の父はどこに

 倒れて一ヶ月間ぐらい、父の意識は半濁状態だったようだ。質問は聞けても、返事は意味のわからない言葉が多かった。一時的に意識が戻った父に、医師が「何か欲しいものは無いですか?」と問いかけると、父は「自由が欲しい、自由をくれ!自由をくれよ!」と叫んでいた。倒れても父は父だな…と思った。母には「何で僕がこんな目に会うんだ!」と話したらしいが、そんな言葉はまったく講師として相応しくないと思えてならなかった。総ての結果の源は自分、因果応報だよ…と。

 ある時は身体に繋がっている管を自ら抜いて(まぁ、このくらいは致し方ないとして)、女性の看護師のお尻を触ったり、手にさせられたグローブを嫌がり激しく怒っていた。宇都宮からの転院間際、車椅子に乗るようになってからは「喫煙所に連れて行け!タバコ!」などと言った。ストレス解消に「煙だけでも」と思い、喫煙所に連れて行くと、居合わせた人に必要にタバコを貰うよう私に指図してきた。結局、私がとある男性に頼み込んで一本もらい、父はそのタバコを吸った。その後、父がその男性に礼を言うこともなく、私が成り代わって礼を言う始末だった。

 父は病人であり、身体的に余裕も無く、気持ちも近視眼になるのは理解していたが、反対に、そこに父の「素」が現れているように思えて、素直に優しく出来なくなっていく私の心もまた苦しかった。


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父の周りで

 会員たちはと言うと、しばらく面会謝絶となった。その間は医師となっていた岡松くんのみに面会が許されることになった。父を慕う人たちからは「直江さんは皆の悪いエネルギーを浴びて、皆の代わりに倒れたのよ」とか、「先生もお疲れが溜まり過ぎていたのよ、最近少しおかしかったじゃない」、「直江さんならきっと大丈夫。お祈りしていますね!」などと早い回復を願う、好意的な声を多く頂いたのもまた事実だった。ある女性は「直江さんじゃなくて、私が倒れれば良かったんです…」などと言ってくれたりもした。ともかくも父の存在は大きく感じられた

 もちろん、一族も同様に父のことを心配していたのであり、人として誰もが思うであろう優しさを父に寄せた。兄弟それぞれの家族も、ペンギンのイラストを中心に書いた紙を寄せ書きのようにして思い思いの言葉を書いた。そして、父の目に留まるであろう場所にそれを貼り付け、心から父の快復を祈った。この大変なときを、なんとかして乗り切ろうという切な連帯感がそこにはあったのだ




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この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

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