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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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#スピリチュアル

「全機」について⑥

何回かにわたって「全機」巻について書いてきましたが、今回で最後になります。 前回、道吾と漸源の問答を紹介しながら、本来の「生死」について見てきました。そして、生死を本当の「生死」たらしめている「全機」のなかに観音菩薩のはたらきがあり、それによって行住坐臥の行いが現成しているということも書きました。 それでは残りの本文を見ていきたいと思います。 (まさに現成そのものであるときは、「現成」に全はたらきが尽くされているので、今の「現成」より前に「現成」などなかったという見解をも

「全機」について⑤

前回、全機現(〈いのち〉の全きはたらきの現成)である「生」はお互いに無礙であるのみならず、全機現である「死」とも無礙であると書きました。したがって、「生」は「死」を妨げず、「死」も「生」を妨げない、つまり「生」と「死」もお互いに無礙なる関係(相即相入)にあるということです。 引き続き、本文を見ていきたいと思います。 (全大地・全虚空は、ともに「生」にもあり、「死」にもある。そうではあるが、一つの全大地、一つの全虚空を、「生」にも全機し、「死」にも全機するというわけではない

「全機」について④

前回、〈いのち〉の全現成としての「生」というのは、仏法に目覚めた自己(「舟」の時節)のことであり、そのとき、すべての存在が自己(舟)のはたらきとなって生きていると書きました。 引き続き、本文を見ていきたいと思います。 (圜悟禅師克勤和尚いわく、「生は全機現であり、死も全機現である」。 この言葉を明らかにして参究するべきである。参究するというのは、「生は全機現である」という道理、それは始めと終わりといった時間軸には限定されず、空間的には全大地・全虚空とひとつになっているもの

「全機」について③

前回、「生」とは〈いのち〉の全現成であり、今、この「生」を私が生きるなかで出会うすべての存在は、この「生」と〈ひとつ〉となって存在しているということを書きました。 前回に引き続き、本文を見ていきたいと思います。 (「生」というのは、たとえば人が「ふね」に乗っているときのようである。この「ふね」は、私が帆を使い、私が舵を取っている。私が棹をさし「ふね」を進めているとはいえども、「ふね」が私を乗せて、「ふね」のほかに私はいない。私が「ふね」に乗って、この「ふね」をも「ふね」な

「全機」について②

前回、「全機」とは万物(自己)を生かしている〈いのち〉の働きであり、その仕組み(=機関)が生を本当の「生」ならしめ死を本当の「死」ならしめている、そして、その〈いのち〉の働きの仕組みが「透脱」と「現成」であると書きました。 前回に続いて本文を見ていきたいと思います。 (「生」はどこから来るのでもなく、「生」はどこかへ去るのでもない。「生」はどこから現れるのでもなく、「生」は何かから成るのでもない。そうではあるが、「生」は〈いのち〉の全きあらわれであり、「死」は〈いのち〉の

「全機」について①

道元禅師の『正法眼蔵』に「全機」という巻があります。 以前、「現成公案」巻に出てくる「前後際断」という言葉について書きました。(↓もしご興味ありましたら参照いただけましたら幸いです) 以前の記事の中で、「前後際断」は仏法における生と死について述べる過程で使われた言葉だということを書きました。 その仏法における生と死について「全機」という巻ではさらに詳しく論じられています。 そこで、同巻は比較的、短いものなので、できるだけ逐一訳しつつ、何回かに分けて考察していきたいと思いま

「在る」について

あまり日常的ではないとはいえ、「実在」だとか「実体」だとかいう言葉がよく使われます。たとえば幽霊は「実在」するのか、とか、魂は「実体」としてあるのか、とか……。 そういうオカルト的な話はともかくとして、「実在」や「実体」というからには、それは変化をしないもの、ただ「在る」ものというふうにしか言うことはできません。 人間にしろ、他の生物にしろ、必ず生まれては死んでいくということになっています。生まれては死んでいくというのは変化ですから、ということは人間や生物は実在でも実体でも

「十界」について②

前回、十界のうち「六道」について書きました。 続いて仏道について書いていきます。 「声聞・縁覚・菩薩・仏」の仏道 「声聞・縁覚・菩薩・仏」が仏道と呼ばれます。仏道は輪廻する六道そのものから解脱する道ですから、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)にも三善道(修羅・人間・天上)にもとらわれない智慧を養う道です。 ちなみに、スピリチュアルの世界における「引き寄せの法則」は波動を上げて下位の天上界の喜びを目指すものなので、解脱を目指す仏道とは関係ありません。巷にあふれるポジティブシンキ

「十界」について①

大乗仏教では世界を「十界」として十の世界に分類しています。 この「十界」について自分なりに考えてみたいと思います。 十界とは 十界は「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界」の六道と「声聞・縁覚・菩薩・仏」の仏道を合わせたものです。 「地獄界」から「天上界」までは輪廻するので迷いの世界です。対して「声聞」から「仏」までが解脱(輪廻を脱すること)の道です。 心は絵師のごとし 仏教では世界は心がつくりだしていると説きます。 したがって、十界とは、心の十様のあらわれ

「前後際断」について

 禅ではよく「今、ここ」が大事だと言われます。人間の思考はすぐ過去や未来をさまよってしまいますから、そういった妄念をスッパリ断じて「今、ここ」に集中せよ、あるのは今だけだ、前後際断だ……そんなふうに「前後際断」という言葉が使われたりするのを耳にします。  「前後際断」という言葉は『正法眼蔵』「現成公案」巻の中に出てきますが、はたして本当にそのような意味で使われているのでしょうか。 現成公案とは  「現成公案」巻の冒頭は「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり

「不染汚」について

 「染汚」(「ぜんま」「ぜんわ」)とは聞きなれない言葉ですが、禅の語録などにはよく出てきます。いわゆる煩悩のことをいいます。これについて考えてみたいと思います。 貪瞋痴の三毒  煩悩は煎じ詰めれば三つにまとめられます。すなわち貪瞋痴です。 「貪」(むさぼり)と「瞋」(いかり)は、執着心や感情的な怒りのことだけではなく、広い意味で「好きと嫌い」「善と悪」「是と非」などの二元的な判断・反応を意味します。「痴」(愚痴)とはそういった二元的な判断・反応が引き起こす苦しみに対しての

「虚空」について

「虚空」とは 「虚空」はサンスクリッド語でアーカーシャといいます。それはただの虚無や実体のない空虚なものという意味ではありません。  ヴェーダーンタ哲学によれば、形ある一切のものはこのアーカーシャ(虚空)から生まれたといいます(現代の量子論的に言うならば量子真空のことです)。宇宙の創造の初めにはこのアーカーシャ(虚空)だけがあり、そこにプラーナの力(=生命力)が働くことで、形ある宇宙が創造されました。  ちなみに、ルドルフ・シュタイナーやエドガー・ケイシーなどの霊視能力者は

「観音力」について

念彼観音力 「観音力」とは文字どおり”観音さまの力”ということですが、それはいったい何なのでしょうか。自分なりに考えてみたいと思います。 『観音経』の内容  「観音力」という言葉は『観音経』の偈に出てくるもの(「念彼観音力」というフレーズで有名)です。  『観音経』自体は、『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」を独立したお経として扱ったものなので、本来『法華経』の一部です。ですが内容はある意味、かなり独特なものです。  その『観音経』に書かれている内容ですが、要約すると

「菩提心」について②(自未得度先度他の心)

 前回、菩提心を発(おこ)すとは無常を観ずることだという道元禅師の言葉(『学道用心集』)について書いた。  一方、道元禅師は『正法眼蔵』の中で以下のように言っている。  「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり」「『発心』とは、はじめて『自未得度先度他』の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ」(「発菩提心の巻」)  菩提心をおこすとは、自らが完全に救われる(彼岸に渡る)前に、一切衆生を救おうと発願し実践していくことで