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「全機」について④

前回、〈いのち〉の全現成としての「生」というのは、仏法に目覚めた自己(「舟」の時節)のことであり、そのとき、すべての存在が自己(舟)のはたらきとなって生きていると書きました。

引き続き、本文を見ていきたいと思います。

圜悟禅師克勤和尚云、「生也全機現、死也全機現」。
この道取、あきらめ参究すべし。参究すといふは、「生也全機現」の道理、はじめ・をはりにかかはれず、尽大地・尽虚空なりといへども、生也全機現をあひ罣礙せざるのみにあらず、「死也全機現」をも罣礙せざるなり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(圜悟禅師克勤和尚いわく、「生は全機現であり、死も全機現である」。
この言葉を明らかにして参究するべきである。参究するというのは、「生は全機現である」という道理、それは始めと終わりといった時間軸には限定されず、空間的には全大地・全虚空とひとつになっているものであるが、全機現である「生」はお互いを妨げないだけでなく、全機現である「死」をも妨げることはないのである。)


「生也全機現、死也全機現」

圜悟禅師は公案集『碧巌録』を編纂した方として有名です。臨済宗系の流れをくむ方ですが、道元禅師は圜悟禅師をとても尊敬しており、『正法眼蔵』には圜悟禅師の言葉が他にもいくつも引用されています。「全機」という言葉も圜悟禅師の「生也全機現、死也全機現」から採られたものです。

繰り返しになりますが、「全機」とは〈いのち〉の全きはたらきのことです。したがって「全機現」とはその〈いのち〉の全きはたらきの現成です。
つまり「生も〈いのち〉の全現成であり、死も〈いのち〉の全現成である」というのが「生也全機現、死也全機現」の意味です。

〈いのち〉の全現成としての「生」は、時間的には永遠であり、空間的には全存在と〈ひとつ〉であります。そして、その〈いのち〉の全現成としての「生」(=生也全機現)はお互いを妨げ合うことはない、といいます。

法界縁起(相即相入)

これは華厳仏教における「法界縁起」(相即相入)の論理が背景にあると思われます。
圜悟禅師も『碧巌録』(第89則「雲巌問道吾手眼」)の中で法界縁起について説明していますが、ここでは簡単に要約してみます。

現象世界(事の世界)は、空の世界(理の世界)の全現成としてあります。ですから、現象世界(事)と空の世界(理)は一如です(色即是空、空即是色)。一如であるということは、現象世界(事)と空の世界(理)はお互い、無礙なる関係にある(事理無礙)ということです。空の世界(理の世界)とは〈いのち〉のことですから、絶対平等です。したがって、その絶対平等の世界と一如であり無礙である現象世界の存在も、各々お互いに無礙である(事々無礙)ということになります。

各々がお互いに無礙である(事々無礙)とは、一事に一切の事が入り、一切の事が各々の一切の事を収めているということです。だから妨げ合うことなく、全体と調和しながら、それぞれがそれぞれのあり方で完璧に存在しています。こういう存在のあり方を仏教では「法界縁起」(相即相入)といいます(現代的にはホログラフィー構造ともいいます)。どんな動物も、植物も、鉱物も、この現象世界のすべての存在、事象は相即相入の構造で存在しています。

どの部分(一微塵)にもホログラムのように全体(全宇宙)が含まれている、つまり部分がそのまま全体であり、全体がそのまま部分であるということです。一が即多であり、多が即一であります。

これはもちろん人にも当てはまります。

たとえば、Aさんという自己の「生」というのは、宇宙の全存在がAさん(自己)の「生」と〈ひとつ〉となって存在しています。そこには、Bさんの「生」も、Cさんの「生」も、その他すべての衆生の「生」およびすべての存在が含まれているのです。
もちろん同時に、Bさん(自己)の「生」には、Aさんの「生」や、Cさんの「生」や、その他すべての衆生の「生」およびすべての存在が含まれていますし、Cさん(自己)の「生」には、Aさんの「生」や、Bさんの「生」や、その他すべての衆生の「生」およびすべての存在が含まれています。

ですから出会うところ自己ではないものは一つもありません。

ですが、人間の社会というのは、二元性によって成り立っているため、自分とは関係なく客観世界というものが自分の「外側」に存在し、その中に、自分も含め、個々それぞれが分離して生きているかのような錯覚をもたらします。したがって、そこでの関係性は無礙ではなく、つねに対立的です。

もちろん、こうした錯覚を錯覚であると重々承知のうえで、社会生活の便宜上あくまで形式的に利用する分には問題はないのですが、この世界観を実在のものと信じ込んでしまうと、さまざまな問題や苦しみを生み出すことになります。自分の「外側」に客観的な世界など存在しません。それは自我という幻想(=仮の主体)が創り出した幻想(=仮の客体)にすぎません。

本当の自己の世界は他の全存在と相即相入の関係にあるので、お互いが妨げ合うことなく自由無礙なるものです。すべての存在は本来、それぞれが完全なる自己としての個性を持ちながら、かつ、同じ〈いのち〉の全現成としての「生」を生きています。そのため、個が個でありながら、おのずと全体と調和が保たれています。ですが、本来の〈いのち〉としての自己につねに立ち返らないかぎり、このような無礙なる世界(法界)はいつも自我の世界によって覆い隠されます。結果、妨げ合いばかりが生じてしまいます。そして無理に周りと協調しようとすることで、自他ともにストレスにさいなまれます。自我の世界は、そういう世界です。

本文に話を戻します。

〈いのち〉の全現成としての自己の「生」(=生也全機現)はお互いに無礙です。しかし、それだけでなく、〈いのち〉の全現成としての「死」(=死也全機現)とも無礙であると道元禅師は言います。

続きを読んでみます。

「死也全機現」のとき、尽大地・尽虚空なりといへども、「死也全機現」をあひ罣礙せざるのみにあらず、「生也全機現」をも罣礙せざるなり。このゆゑに、生は死を罣礙せず、死は生を罣礙せざるなり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(全機現としての「死」のとき、それは全大地、全虚空とひとつになっているが、全機現としての「死」はお互いを妨げないだけではなく、全機現としての「生」をも妨げることはないのである。このゆえに、「生」は「死」を妨げず、「死」は「生」を妨げないのである。)


自己の「生」は事々無礙なる相即相入の構造で存在していますが、それは「生」だけに限った話ではありません。自己の「死」も、「生」と同じく〈いのち〉の全現成としての「死」ですから、当然、相即相入の構造で存在しています。

私の「死」は全宇宙の存在と〈ひとつ〉となっています。私が死んでこの世界から消えていく、というのは自我の世界(=時空)における話です。自我の世界では「私」と「世界」、自と他は分離しています。そして直線的な時間が支配しています。ですから当然そういう「発想」になります。しかし、法界としての自己の世界は、一如であり、無礙なる世界です。自己と離れて存在する何ものもありません。(この自己を自我と思い誤ると、下手をすると、無理心中や、無差別テロなどにつながるのかもしれません)

ここでの自己とは、不生不滅なる〈いのち〉を本源とする自己です。その自己の中に「生」があり「死」があると以前に書きました。本来の自己は父母未生以前の自己、つまり時空以前のところ、不生不滅の〈いのち〉で生きている自己です。その自己が「生」というあり方となって生き、「死」というあり方となって生きているということです。

自己が「生」というあり方で生きているとき、すべての存在と相即相入(無礙)の関係としてあります。同じく、自己が「死」というあり方で生きているときも、すべての存在と相即相入(無礙)の関係としてあります。

そして「生」と「死」も同様に相即相入(無礙)の関係ですから、「生」は「死」を妨げないし、「死」は「生」を妨げません。

自我の世界において当たり前のように思われている、生を脅かすような死というのは、ですから「死」ではありません。それは「生を脅かす死」というイメージ(妄想)でしかありません。同じように「死に脅かされる生」というのも「生」ではなく、ただのイメージ(妄想)にすぎません。ですが、自我の世界を実在だと勘違いすると、人類が集合的に創り上げてきたそうした単なるイメージ(妄想)のために惑わされ、苦しめられることになります。そしてみんなでそれを”演じる”ことになります。

「生」は生まれることではなく、「死」は死ぬことではありません。どちらも自己の〈いのち〉のふたつの側面です。どちらも法(ダルマ)としてのあり方(法住法位)です。そして自己と世界は〈ひとつ〉ですから、自己の「生」にも世界があれば、自己の「死」にも世界があります。

だからといって、自己と関係なく存在するような客観的なる「あの世」などはありません。それは自己の「生」において、外側に自己と分かれた世界などないというのと同じことです。「生」の世界も、「死」の世界も、いずれも自己の実存的な世界です。

(また長くなりますので、続きは次回にします)

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