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「全機」について⑥

何回かにわたって「全機」巻について書いてきましたが、今回で最後になります。
前回、道吾と漸源の問答を紹介しながら、本来の「生死」について見てきました。そして、生死を本当の「生死」たらしめている「全機」のなかに観音菩薩のはたらきがあり、それによって行住坐臥の行いが現成しているということも書きました。

それでは残りの本文を見ていきたいと思います。

正当現成のときは、現成に全機せらるゝによりて、現成よりさきに現成あらざりつると見解するなり。しかあれども、この現成よりさきは、さきの全機現なり。さきの全機現ありといへども、いまの全機現を罣礙せざるなり。このゆゑにしかのごとくの見解、きほひ現成するなり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(まさに現成そのものであるときは、「現成」に全はたらきが尽くされているので、今の「現成」より前に「現成」などなかったという見解をもつものである。そうではあるが、この今の「現成」より前は、前の「全機現」である。前の「全機現」があるといえども、今の「全機現」を妨げることはないのである。このゆえにそのような見解も、さかんに現成するのである。)

この文章で「全機」巻は終わりですが、ここでも道元禅師は非常に大事なことを言っています。

今の「全機現」と過去の「全機現」

仏教では生死流転、すなわち輪廻というものが世界観の前提にあります。ですが、現代では一般的にその世界観に対してリアリティをもつことは難しいかもしれません(実際、現代の禅僧や仏教学者のなかにも自分は輪廻を信じないと公言している人がいるくらいです)。本文中で「現成よりさきに現成あらざりつると見解するなり」と言っているように、当時(鎌倉時代)から、すでにそうした世界観に疑問を呈する見解があったのだろうと思います。

しかし、大事な点は、ここで道元禅師が言っている「いま」や「さき」(前)は、生死流転を規定している直線的時間における現在と過去ではないということ、そして「さきの全機現」と言っているように「全機現」は決して「今」に限定されるものではないということです。

「いま」は時間のことではありません。「今」という自己のあり方・・・・・・です。
「さき」も時間のことではありません。「過去」という自己のあり方・・・・・・です。

「今」という自己も全機現としての自己であり、「過去」という自己も全機現としての自己です。

そして「今」と「過去」は時間的な関係ではないため、「今」は「過去」にはならず、「過去」が「今」になるわけではありません。前後際断です。しかし、そのようなあり方で、お互いに無礙なる関係です。無礙であるというのは相即相入の関係にあるということですから、「今」という現成のなかに現成しない「過去」も含まれ、現成しない「過去」のなかに「今」という現成が含まれています。

「過去」は「今」としては現成しないから「過去」なのですが、しかし全機現としての「過去」であるので、同じく全機現である「今」と無礙なる関係です。そのような〈いのち〉の全体が全機現です。それは決して直線的な時間における過去や現在と混同されてはなりません。

「身心学道」巻のなかにこのような文章があります。

「平常心」といふは、此界他界といはず、平常心なり。昔日はこのところよりさり、今日はこのところよりきたる。さるときは満天さり、きたるときは尽地きたる。これ平常心なり。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

(「平らかで永遠なる心」=平常心というのは、「生」の世界と言わず「死」の世界と言わず、つねに平らかなる心である。過去はこのところから去り、今日はこのところから来ている。去るときは自己の世界である全虚空が去り、来るときは自己の世界である全大地が来る。これが平常心である。)

平らかで永遠なる心

ここでの「平常心」とは一般的に言われる「平静な心」という意味ではありません。「平常」とは”平らかで永遠である”ということです(「常」とは「無常」ではないということ、つまり永遠です)。それは時空以前の心のことであり、〈いのち〉そのものと言ってもいいです。「生」の世界であれ、「死」の世界であれ、「過去」と「今」は、ともに「平常心」のなかで生きている事実です。

ただ、ここでの「去る」と「来る」という言葉についても、時空の運動のように考えてはなりません。「去る」といっても、「来る」といっても、「平常心」から出るわけにはいきません。

「去」と「来」

「去」というのは「透脱」と言い換えることもでき、〈いのち〉そのものへ帰ることです。帰るところは、永遠としての「過去」つまり「久遠」です。そこにおいてすべての「過去」の自己は過去・・というあり方・・・・・・で永遠に生き続けています(仏祖であれ、衆生であれ)。ですからここで言う「過去」というのはアーカーシャ(虚空、量子真空)やベルクソンの純粋記憶のような世界と同じものを指すのかもしれません。それはつねに「今」とともにある「過去」です。

それに対して「来」というのは「現成」であり、〈いのち〉の全現成としての自己の世界です。それには「生」の世界もあり、「死」の世界もあります。決して「来」が”生まれること”、「去」が”死ぬこと”であると捉えてはなりません。「生」の世界も「死」の世界も、どちらも「現成」、つまり在るがままの世界です。

「現成」は「今」のありようです。「今」のありようとして自己の「生」があり「死」がありますが、そのとき〈いのち〉のはたらきは「現成」に尽くされていますから、前後は際断されており、「生」のときは「生」の自己のみ、「死」のときは「死」の自己のみ、です。ですが、「生」と「死」はお互い無礙であり、相即相入の関係にあります。したがって、「生」の現成のときには現成していない「死」もすでに含まれており、「死」の現成のときには現成していない「生」もすでに含まれています

その現成していない「生」や「死」というのは過去の「生」や「死」でもあり、もしくは未来の「生」や「死」でもあるでしょう。

生死去来真実人体

同じく「身心学道」巻に次のような文章があります。これは以前に紹介した圜悟禅師の別の言葉「生死去来真実人体」(生死去来ともに真実の体である)について述べたものです。

いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。生は死を罣礙するにあらず、死は生を罣礙するにあらず、生死ともに凡夫のしるところにあらず。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

(いまだ「生」を捨てていないけれども、今すでに「死」を見ている。いまだ「死」を捨てていないけれども、今すでに「生」を見ている。「生」は「死」を妨げることはない、「死」は「生」を妨げることはない。「生」と「死」はともに凡夫の知るところではない。)

「生」と「死」は相即相入の関係で、一如です。ですから、「生」の世界が現成しているときでも、現成していない「死」をすでに見ているとも言えるし、「死」の世界が現成しているときでも、現成していない「生」をすでに見ているとも言えます。そして同時に、「今」という現成にはすべての「過去」(虚空)が含まれているのです。

当然このような世界は、凡夫(自我)が見ている世界観(三次元的空間と直線的時間)を基準にしては決して分からない世界です。

続いて生死去来についてこのように言っています。

去来を参学するに、去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

(「過去」と「今」を参学するに、「過去」に「生」と「死」があり、「今」に「生」と「死」があり、「生」に「過去」と「今」があり、「死」に「過去」と「今」がある。)

「生」と「死」、「今」と「過去」という自己のありようはすべて、ただひとつの〈いのち〉の全機現であり、その各々のなかに各々がホログラフィックに重ね合わされています。

このような世界観を道元禅師はあの時代に言語化していたという事実には驚くほかはありません。

ですが、この世界観がはたして本当にどれだけ伝わってきたのかというと、はなはだ疑問です。いまだに多くの禅者が口にするのは、煎じ詰めると「生きるということは今しかないのだ。だから今を大事にしなさい」ぐらいなものです。しかし、そこで言われる”今”とは本来の「今」(永遠としての今)のことではなく、流れる時間をぶつ切りにした、ただの瞬間としての現在でしかないのではないでしょうか。そこでは本当の「死」は無視され、ましてや本当の「過去」、つまり「久遠」という不生不滅の〈いのち〉のことなど幻想のまた幻想にしかすぎないでしょう。そんな世界観のまま勇ましく「今を生きよ」と言っても、どうやって生死の苦しみを脱することができるのでしょう。それはただの思考停止にすぎないのではないでしょうか。

しかし実際、そのような態度こそが実存的だと解釈される向きすらあります。たしかに唯物論的になってしまった現代人の頭には、「死」や「過去」のことなど考えずに現在を生きるといった態度が「現実的」でカッコよく映るのかもしれません(しかし、そこで問題にされている「過去」や「死」は時空における相対的なものでしかありません)。

それは実存でも何でもありません。本当の実存とは、「生」「死」「今」「過去」(=生死去来)すべてを含んだ自己のありようを言うのだと思います。そして、それが本当の意味での「未来」としての自己を示しているのだと思います。

過去・現在・未来の三世にわたる、生者も死者も、衆生も仏も、「今、ここ」で同時に・・・生きています。それが「全機現」です。道元禅師は明らかにそのような世界観を提示しています。

最後は少し批判的な調子になってしまいましたが。。
このへんで終わりたいと思います。

まとめ

まとめますと、〈いのち〉の全きはたらきである「全機」が自己を自己たらしめている、その「全機現」としての自己のなかに本当の「生」の世界があり、本当の「死」の世界がある、その「全機現」としての本来の自己に目覚め、本当の「生死」(生老病死という時間に支配された迷いの生死ではない「生死」)を生きることが道元禅師の言う仏道であるということです。


※今回、「全機」巻について書くにあたって、久木直海さんの『正法眼蔵の死生観 道元の世界』(同友館)には非常に多くの示唆を頂きました。なお、今回の訳文や解説に関してはあくまで自分自身の責任において書いたものです。直接、同書とは関係はありません。


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