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「全機」について⑤

前回、全機現(〈いのち〉の全きはたらきの現成)である「生」はお互いに無礙であるのみならず、全機現である「死」とも無礙であると書きました。したがって、「生」は「死」を妨げず、「死」も「生」を妨げない、つまり「生」と「死」もお互いに無礙なる関係(相即相入)にあるということです。

引き続き、本文を見ていきたいと思います。

尽大地・尽虚空、ともに生にもあり、死にもあり。しかあれども、一枚の尽大地、一枚の尽虚空を、生にも全機し、死にも全機するにはあらざるなり。一にあらざれども異にあらず、異にあらざれども即にあらず、即にあらざれども多にあらず。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(全大地・全虚空は、ともに「生」にもあり、「死」にもある。そうではあるが、一つの全大地、一つの全虚空を、「生」にも全機し、「死」にも全機するというわけではないのだ。それは一つのものではないが異なるわけではなく、異なるわけではないが同じでもなく、同じでもないが多くあるのでもない。)

全機現としての「生」の世界と「死」の世界

「尽大地・尽虚空」は全宇宙、つまり自己の世界のことです。
全機現(〈いのち〉の全きはたらきの現成)としての自己の「生」にも世界はあるし、同じく全機現としての自己の「死」にも世界はあります。しかし、それは同じ一つの宇宙(世界)を「生」にも現成させ、「死」にも現成させるのではない、といいます。とはいえ、どちらも自己の世界なのだから異なるわけではないし、「生」における世界と「死」における世界は同じではない、かといって、宇宙(世界)が数量的にいくつもあるわけでもない。

要するに、ここでの「尽大地・尽虚空」というのは実存的な世界(自己によって真に生きられている世界)のことですから、そのような比較(同じか異なるか)や数量的判断は意味をなさないということです。

比較や数量的判断というのは、あくまで客観的な世界を想定した場合に当てはまるもので、それは自我によるものです。自分の「外側」に客観的な世界が実在しているというのが自我(仏教的に言うならば「凡夫」)の世界観です。だから自我(凡夫)にとって世界とは(数量的な意味で)一つです。そして自分が死んだら、その世界から消えて無になるか、もしくは”客観的な世界”である「この世」を投影した「あの世」に行くか、というどちらかの発想になります。自我(凡夫)にとって「この世」も「あの世」(もしくは唯物論者にとっての「虚無」)も、自分とは関係なく「外側」に実在していると思っている何かです。

そうした自我によって常識とされている世界観、つまり三次元的な空間と直線的な時間によって規定された世界観をまずは捨て、〈今・ここ〉に立ち返らないとなりません。そうしないと、道元禅師の言っている本当の自己の世界は分かりません。

続いて本文を見ていきます。

このゆゑに、生にも全機現の衆法あり、死にも全機現の衆法あり。生にあらず死にあらざるにも全機現あり。全機現に生あり、死あり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(このゆえに、「生」にも全機現であるさまざまな存在があり、「死」にも全機現であるさまざまな存在がある。「生」でもなく「死」でもないあり方にも全機現はある。全機現に「生」があり、「死」がある。)

自己と生きる衆法(さまざまな存在)

前回も相即相入の論理について書きましたが、「生」は全機現(〈いのち〉の全きはたらきの現成)としての自己の世界ですから、そこには自己と〈ひとつ〉となって生きているさまざまな存在があります。それらはお互い無礙なる関係であり相即相入の関係です。

全機現としての「死」も同じです。自己の「死」の世界には当然、さまざまな存在が自己と〈ひとつ〉になって生きています。自己も世界も、ともに全機現(〈いのち〉の全きはたらきの現成)です。

「生にあらず死にあらざる」(不生不滅)

「生にあらず死にあらざるにも全機現あり」とは、中有(いわゆる「四十九日」)のことを言っているようにも思えますが、そうではなく、「生にもあらず死にもあらず」とは不生不滅である〈いのち〉そのもの・・・・のことを言っているように思われます。それは「空」や涅槃といった静的なイメージで語られがちですが、それ自体、〈いのち〉のはたらきの根源ですから、全機現でないわけはありません。

そして、この言葉の背景には、中国唐代の道吾禅師と弟子の漸源による問答があると思われます。これは『碧巌録』(第55則)に収録されています。

道吾と漸源の問答

道吾禅師と弟子の漸源がとある家に弔慰に行きました。
そこで漸源は遺体の入った棺桶を打って「生か死か」(生邪、死邪)と道吾禅師に問いました。すると、道吾禅師は「生とも言わん、死とも言わん」(生也不道、死也不道)と答えました。「なぜ言わないのか」と漸源は詰め寄りますが、道吾禅師は「言わん、言わん」(不道、不道)と言うばかりでした。

普通の常識ならば、遺体は「死」を意味します。もしくは唯物論者ならば、遺体はまだ腐敗の過程にあるから、それも物質的な意味での生命現象であるとして「生」であると言うかもしれません。が、どちらも的外れです。なぜならここで問われている「生」や「死」とはそんな生老病死という時間的、空間的な凡夫の世界の話ではないからです。

ではなぜ「生とも言わん、死とも言わん」(生也不道、死也不道)と道吾禅師は答えたのか。

本当の〈いのち〉そのもの・・・・は「生」とも言えないし、「死」とも言えない、その根源である〈何ものか〉です。そしてそれこそが「道」です。「道」には真理という意味とともに、「言葉」という意味もあります。

「生也不道、死也不道」の「不道」は「言わない」=「言葉にしない」つまり「言葉にならない真理」という意味ですが、以前にも書いたように、禅における「不」はただの否定の意味だけではありません。むしろ絶対の肯定の意味があるのです。

〈いのち〉そのもの・・・・は「生」とも言えない、「死」とも言えないのですが、同時に、「生」でもあり、「死」でもあるのが〈いのち〉です。ですから、「生也不道、死也不道」とは「生」とは「不道」=〈いのち〉であり、「死」も「不道」=〈いのち〉である、という意味が込められています。

「不道」とは、言葉を超えた真理、つまり〈いのち〉のことですから、「全機現」です。したがって、道吾禅師の「生也不道、死也不道」は、圜悟禅師の「生也全機現、死也全機現」と同じ意味です。というより道吾禅師の「不道」を圜悟禅師はその「はたらき」の面を強調する意味で「全機現」と言い換えることで自らの表現にしたのだと思います。言葉にできないところ(不立文字)を言葉にすることが本当の禅における「道」です。

ですが、このような言葉だけ・・による理解は、むしろ本当の自己から遠ざかることにもなりかねません。ですから、その「生か死か」を問うている、お前(自己)とは〈何もの〉なのか、ということを実地に参究しろという意味でもあります。

話を本文に戻しますと、したがって「生にあらず死にあらざる」ところの〈いのち〉、それは全機現そのものであるから、その全機現の〈いのち〉のなかに「生」があり、「死」があるのだということです。

続いて本文を見ていきます。

このゆゑに、生死の全機は、壮士の臂を屈伸するがごとくにもあるべし。如人夜間背手摸枕子にてもあるべし。これに許多の神通光明ありて現成するなり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(このゆえに、生死の全機は、逞しい若者が肘を屈伸するような日常の一瞬の動作にもはたらいているだろう。坐禅三昧の時にもはたらいているだろう。それらは生死の全機に計り知れない不可思議なる光明があって現成するのである。)

観音の手眼のはたらき

この「生死」は全機現としての「生死」です。自己の「生」と「死」を本当の「生死」ならしめている全機(〈いのち〉の全きはたらき)は、腕を曲げるというような日常の当たり前の動作にもはたらいているし、坐禅三昧の時にもはたらいている、といいます。

「如人夜間背手摸枕子」という言葉ですが、これも先ほどの道吾禅師の言葉です。兄弟弟子である雲巌禅師に「観音菩薩は無限の手眼を用いて何をしているのか」と問われて道吾禅師が答えたものです。(この問答については以前にも書きました↓)

「如人夜間背手摸枕子」とは文字どおりに訳せば、「夜、人が睡眠中に手を後ろにして枕を探しているようなものだ」という意味です。ですが、これは訓読みせず、漢文のまま読まないとかえって意味が分かりません。

「如人」とは本来の自己のことです。「夜間」とは明暗における暗、つまり「空」の世界(不思量底)のことです。「枕」は頭(=自己)を守る大事なものですから「仏性」と言えます。「手を後ろにして枕を探す」とは回向返照、つまり坐禅のことです。

要するに「如人夜間背手摸枕子」とは観音菩薩の手眼のはたらき(仏性)を自受用していること、つまり坐禅三昧のことを言っています。
顕在意識(=思量)には分からない、無意識裡(=不思量底)にはたらいている、われわれの潜在的な力である観音のはたらき(=非思量、仏性)を、人の睡眠時のありように譬えたものでしょう。

全機(〈いのち〉の全きはたらき)には、計り知れない不可思議なる光明である観音菩薩のはたらきが存在しており、それによって日々における行住坐臥の行い(=修行)が現成しているのだということです。

観音さまとは〈何もの〉か。
もちろん本来の自己のすがたのことです。

(もう少しで終わりですが、残りは次回にしたいと思います)

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