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「観音力」について

念彼観音力

 「観音力」とは文字どおり”観音さまの力”ということですが、それはいったい何なのでしょうか。自分なりに考えてみたいと思います。


『観音経』の内容

 「観音力」という言葉は『観音経』の偈に出てくるもの(「念彼観音力」というフレーズで有名)です。
 『観音経』自体は、『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」を独立したお経として扱ったものなので、本来『法華経』の一部です。ですが内容はある意味、かなり独特なものです。
 その『観音経』に書かれている内容ですが、要約すると、観音さまを深く念じていれば、災難や苦難からもことごとく逃れることができる、というものです。
 もっと簡単に言ってしまえば、

「観音さまを一心に念じよ。そうすれば、すべてがうまくいく。以上」

 まあ理屈も何もないといいますか、シンプルきわまりない内容ではあります。ですので、小難しい仏教哲学を学んだ人ほど「こんな現世利益ばかり述べたもんはくだらん」と切り捨ててしまいかねません。それも無理はないとは思います……。
 しかし同時に、民間における信仰のみならず、禅の世界において観音菩薩ほど昔から大事にされてきたものもないのも事実です。そしてこの『観音経』は禅宗では今でも最も大事にされているお経のひとつのようです。
 これは本当に単なる現世利益をうたったお経なのでしょうか。

「観世音」とは

 そもそも「観世音」とはどういう意味でしょうか。
 原語であるサンスクリット語のアヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)は本来「観自在」と訳すほうが妥当らしく、『般若心経』では「観自在菩薩」となっています。しかし、『観音経』では「観世音」と訳されており、これはおそらく「衆生の苦しみを普く観る」という意味合いを込めて、「観世音」と訳されたのではないかとも言われています(諸説あります)。もしかすると推測ですが、般若(空の智慧)の象徴として登場する『般若心経』に対して、『法華経』(普門品)では慈悲の側面を強調するためにそのように訳されたのかもしれません。ただ、「世」(loka)とはただの「世の中」という意味だけではなく、「壊れゆくもの」「移ろいゆくもの」、つまり「無常」という意味合いがあるようなので、「無常(の中で苦しむ衆生)を自在に観じる菩薩」と捉えるのが個人的にはいいように思います。

「無尽意菩薩」とは

 『観音経』は、無尽意菩薩という菩薩が質問するところから始まります。

 ブッダの説法を聴聞していた無尽意菩薩という菩薩が、いきなり座より立って、ブッダに向かって合掌し、「観世音菩薩はいったいどういう因縁でもって”観世音”と名付けられているのですか?」と質問します。

 この「無尽意菩薩」とは「尽きせぬ意志を持つ者」という意味があるそうです。つまりは道心が堅固で揺るがない菩薩ということでしょう。そういう人が発している問いであるという点は見逃してはならないと思います。

 そして、その無尽意菩薩の問いに対してブッダが答えます。

「善男子、もし無量百千万億の衆生あって、もろもろの苦悩を受けんに、この観世音菩薩を聞いて、一心に名を称せば、観世音菩薩、即時にその音声(おんじょう)を観じて、皆、解脱することを得せしめん。(善男子。若有無量。百千萬億衆生。受諸苦惱。聞是觀世音菩薩。一心稱名。觀世音菩薩即時觀。其音聲皆得解脱。)

 数え切れないほどの衆生が、生きるにあたって、もろもろの苦悩を受けるときに、この観世音菩薩を聞いて、一心に名を称えれば(一心称名)、観世音菩薩は即時にその音声(おんじょう)を観じて、皆を苦しみから解脱させ得るのだといいます。

「聞く」と「観じる」

 ここでの対象は「無量百千万億の衆生」なので、特別な修行者や聖者に限りません。「誰でも」です。だから普く人に開かれた門(=普門品)と題されています。
 しかし、ポイントは「この観世音菩薩を聞いて」「一心に称名する」という部分にあると思います。
 「この観世音菩薩を聞いて」の「聞く」はただ耳で音を聞くということではありません。「法を聴聞する」という場合と同じく、全身心で感得するということです。「観世音菩薩」という名を聞いても、それがただの観念に留まっていては意味がありません。
 仏教では「名」(ナーマ)はただの名前のことではなく心の作用そのものをいいます。この世界は心がつくっています。ですから「名」は存在と同じくらい重要な意味があります。 
 そして「観世音菩薩」の名を聞くのは、苦悩の絶えない、のっぴきならないこの自分の現実の中においてです(経文の中では「七難」としてまとめられています)。
 苦悩が起こるとき、苦しみにあれこれ手をつけず、素直に苦悩すればよいのですが、それがなかなかできません(自分なんかはすぐに逃げようとしてしまいます……)。でも観念し、降参して、苦悩そのものになりきるとき、「観世音菩薩」という名(=存在)がじかに感じられます。それが「聞く」ということだと思います。
 そうすると、おのずと一心に称名するしかありません。「一心」は「ただひとつ」ということですから、「観世音菩薩」と自分とがひとつになるほど自己をその名号に投げ入れることを意味します。
 すると観音さまは即時にその音声(おんじょう)を観じる、といいます。

〈ひとつ〉の音

 白隠禅師は観音菩薩についてこう言っています。

「観音菩薩と申すのは、音を観ゆとの事ぞかし。これは則ち隻手の音じゃ。ここを悟ると目が覚める。御目が覚めると、世界一面観音じゃ」(鎌田茂雄著『観音経講話』 講談社学術文庫)

 「隻手の音」とは両手の音ではなく、片手の音という意味です。両手で叩く音は、耳で聞く音、つまり「私」という主体が聞いている音(=現象界の音)ですが、片手(ひとつ)の音というのは主体と客体に分かれていない音、音ならぬ音です。それが観音菩薩が観じる「音声」(おんじょう)です。それには「私」という分離があってはなりません。
 苦しみのど真ん中で一心称名、自己を亡じるとき、観音菩薩と感応道交します。そのことを経文では「即時に」と表現しています。こちらの一心称名に応じて”即時に”観音菩薩は「一音を観じる」のです。主客未分の世界に観音菩薩はいます。

雲巖と道吾による「観音」

 観音と自己における感応道交について述べたものとして、『正法眼蔵』の「観音」巻にも紹介された、雲巖と道吾による問答があります。

雲巖「大悲菩薩、用許多手眼作麽」(観音菩薩は無限の手眼を用いていったい何をしているのだい?)
道吾「如人夜間背手摸枕子」(人が夜、就寝中に手を後ろに回して無意識に枕を探しているようなものだ)
雲巖「我会也、我会也」(わかった、わかった)
道吾「汝作麽生会」(お前はどうのようにわかったのか)
雲巖「遍身是手眼」(万法が観音の手眼のはたらきそのものだ)
道吾「道也太殺道、祇道得八九成」(真理を言葉にすることは、ほとんどできている。ただ、それでも8〜9割の出来だ)
雲巖「某甲祇如此、師兄作麽生」(自分としては以上だ。兄さんはどうなんだ)
道吾「通身是手眼」(この自己が観音の手眼のはたらきそのものだ)

 千手観音像に見られるように、その無限の手眼で観音さまは何をしているのか。その問いに対して道吾禅師は「如人夜間背手摸枕子」(人が夜、就寝中に手を後ろに回して無意識に枕を探しているようなものだ)と言います。「枕」は頭を守る大事なものですから、仏性といってもいいと思います。「夜間」というのは主客未分の世界を言っています。
 すなわち、主客未分の「空」の世界で観音さまは衆生(私たち)が目覚めるためにつねに働いてくれているということです。それが「観音力」です。

 「遍身是手眼」の「遍身」とは「遍界不曾蔵」(何も隠されていないありのままの世界)と同じ意味で、仏法に照らされた実相(=万法)のことです。つまり世界はすべて観音さまの手眼のはたらきなのだといいます。先ほど白隠禅師が「御目が覚めると、世界一面観音じゃ」と言っていたことと同じことを雲巖禅師も言っています。
 そして、それは同時に「通身是手眼」であるといいます。「通身」とは「万法に証せられた自己」のことです。「思量箇不思量底 不思量底如何思量」です。まさに禅とは観音菩薩である〈本来の自己〉に目覚めていくことだと言えます。
 「観音力」(=非思量)のはたらきによって、自己が万法であり(思量箇不思量底)、万法が自己である(不思量底如何思量)というこの世界の実相は保たれています。
 ただ、その現成は〈今、ここ〉、〈このわたし〉による行にかかっています。それが一心称名であり、坐禅です。だから、この二つに違いはないと思います。称名も坐禅も本質は同じです。

『般若心経』と『観音経』

 松原泰道さんは「般若心経が『智慧』の経典なら、観音経は『慈悲』の経典」であるとして、両者は表裏一体だというようなことをおっしゃっています(『観音経入門』祥伝社新書)。

 たしかに、『般若心経』は空の思想が簡潔に述べられていて、非常に人気の経典です。でも、いくら空の思想を頭で理解したところで、煩悩うずまく生活世界では何の役にも立ちません(少なくとも、自分のような煩悩の多い人間には……)。そのとき、この娑婆世界の苦悩のど真ん中で生きる者にとって『観音経』は「慈悲」の経典として大きな意味を持ちます。苦悩があっても、そこに「観音力」がはたらいているのが感じられると、生きるうえでこの上ない助けになるからです。
 苦悩が起こるということは、それは自分の過去の業(カルマ)によるものですが、同時にその苦悩を通して深い目覚めにつながる機縁にもなります。それも観音さまのはからいである気もします。
 ですからこのお経はただの現世利益として切り捨てるにはもったいないと思います。たしかに現世利益的に見えることも書いてはありますが、実際、本当に「観音力」を深く深く実感し、本当に素直になって念じているなら、どんなことだって叶わないことはないんだろうと思います。この世界は心がつくっているからです。

「妙音」という響き

 最後に、称名における名号ですが、実際は「南無阿弥陀仏」であれ「南無妙法蓮華経」であれ、もしくは「イエス・キリスト」であれ、自分に合うものであればどれでもよいと個人的には思っています(あくまで個人的な意見です)。
 名号は〈ひとつ〉の音(=非二元の響き)です。「観世音は妙音である」(「妙音観世音」)と言われるゆえんです。万物はその響きより成っていますから、その”妙なる音”にみずからを合わせることが大事なのだと思います。
 そもそも「観音」(妙音)は形のないもの(=無相)ですから、逆説的な言い方ですが、「観音さま」という形にこだわる必要すらない、むしろ何にでもなる、それが観音菩薩です。


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