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「在る」について

あまり日常的ではないとはいえ、「実在」だとか「実体」だとかいう言葉がよく使われます。たとえば幽霊は「実在」するのか、とか、魂は「実体」としてあるのか、とか……。
そういうオカルト的な話はともかくとして、「実在」や「実体」というからには、それは変化をしないもの、ただ「在る」ものというふうにしか言うことはできません。

人間にしろ、他の生物にしろ、必ず生まれては死んでいくということになっています。生まれては死んでいくというのは変化ですから、ということは人間や生物は実在でも実体でもないということになります。

いや、「私」は人間であり、生まれては死んでいくが、その「私」とは実在なのだ、と言われるかもしれません。そうなると、生まれる前も「私」は「私」であり、死んだ後も「私」は「私」でなければなりません。それではいったい”何”が生まれて”何”が死んだのか分からなくなります。

いや、そうではなく、生まれて死んでいくのはあくまで肉体であり、肉体に宿る「私」の本質は永遠なるものなのだ、だから肉体が滅びた後も「私」は霊魂として生き続けるのだ、という考えがあります。こういう考えを仏教では「常見」といいます。

他方、生まれる前には「私」はいないし、死んだ後も「私」はいない、つまり無から「私」は生まれて、ただ無へと「私」は消えていくのだ、という考えもあります。無と無に挟まれた、ある一定の期間だけ「私」は実在しているというわけです。こういう考えを仏教では「断見」といいます。

しかし、どちらの考えにせよ、生まれては死んでいく「私」という何ものかを実体視するために、前者は「霊魂」という概念を、後者は「無」という概念を持ち出してきているだけで、言っていることは同じです。どちらも「霊魂」や「無」という謎の存在を実体視することで、じつは虚構の「私」をでっちあげているのです。では、「霊魂」とは何なのか、「無」とは何なのか、と問われて明確に答えられる人などいません。ただの概念だから当然です。ということは、そのような概念によってでっちあげられた「私」というのも概念にすぎません。

これは、「私」とは何か、などという難しい話ではなく、ただの次元の混同による問題です

生まれては死んでいく、というのは「時間」の概念です。ですが、そもそも、「生まれては死んでいく」と言うためには、生まれては死んでいく何か(個別の実体)が必要です(何もないものが生まれては死んでいくことなどできないですから当然です)。それには、その「個別の何か」が成立するための別の概念がなければなりません。それが「空間」の概念です。「時間」が成立するためには「空間」の概念がなければなりません。

時間と空間の概念を通して初めて、先ほどの「常見」「断見」という妄見も成立します。

ではその時間と空間の概念を通じて世界を見ているのは「誰なのか」ということになります。

もし、時間と空間の概念を通じて世界を見ているのが「私」であるならば、「私」は時間と空間の世界に存在することはできません。なぜなら時空の中にいるものが時空内の運動を認識することはできないからです(走行中の電車の中にいるものにとって電車は動いているように見えないように)。

「何かが生まれては死んでいく」というのは時間と空間の概念によって成り立っていますので、「私」がその中に入れない以上、「私」は生まれることも死ぬこともできません。

「私」が実在もしくは実体であるというのならば、そういうことになります。「私」とは時空の中には存在せず、したがって生じたり滅したりできません。つまりそれはただ「在る」ことしかできません。

「在る」とは時間と空間の次元のことではないということです。「在る」が本当の私、すなわち自己の場ですが、それを純粋な意識というのなら、意識の場は、世界を映しているスクリーンのようなものです。

したがって、脳という物質の中に意識が存在している、というのは馬鹿げています。なぜなら「主体である意識の場それ自体が、時間と空間の物質次元の中に存在している」と言っていることになるからです。

それは言うなれば、映画館にいる観客自身が、今まさに観ているスクリーンの映像世界の中に、その映画を観ている観客として出演していると言っているのと同じくらいナンセンスです。

脳科学の世界などでよく言われる、脳がどうやって意識を生み出すのか、というような問いも、ある映画を観ながら「この映画の中でこの映画自体はどうやって始まるのだろうか」と言っているのと同じです。

ただ、こうしたナンセンスな錯覚を生み出すのが自我というものです。「在る」という主体である〈私〉が、時間と空間における物質次元の中に客体である「私」として存在しているかのような錯覚を、です。これはまさに自分が観ている映画の中に自分が出演しているというのと同じ錯覚です。

自我にこの錯覚を可能ならしめているのが「肉体」という概念です。「肉体」は英語で”body”ですが、それは「死体」という意味もあります。つまり物質として客体的に認識されたものです。これは「今、ここ」で生きている自己の「身」のことではありません。「肉体」は生きていません。それはある意味で「死んで」います。

「肉体」は他者の視線によって概念化されたものです。いわば「鏡像」です。だから生きてなどいません。それは時間と空間の物質次元における客体として概念化されたものなので、生まれては死んでいくという物質現象に忠実に従うように見えます。

その他者の視線によって客体として概念化された「鏡像」を「私」だと認識するのが自我の始まりです。「他者」とは親であったり学校であったり社会であったりしますが、自我とは、他者の目に映った「私」という鏡像です。それは主体と客体の転倒であり、混同であるのですが、そのことによってこの時間と空間による物質次元の中で「私」は生まれたり死んだりすることができるようになるのです(晴れて”映画”の出演者になれたようなものです)。

常識的な感覚では、自我が芽生える前に「私」はすでに赤ん坊として生まれていたはずだから、自我によって生まれたり死んだりできるようになるというのはおかしいと思われるかもしれません。

ですが、赤ん坊はもともと「私」ではありません。

鏡像である肉体を「私」であると認識したからこそ、赤ん坊は「私」となり、時間という概念の中で”何年何月に「私」は生まれた”と言えるのです。そのように”時間的”に遡って赤ん坊が「私」となるまでは、赤ん坊は他の「私」(たとえば親など)にとっての存在でしかありません。

客体としての肉体と同化した「私」は、生まれては死んでいく存在、つまり時間的な存在となりました。

その自我としての「私」は他者をも同じく肉体という客体として認識します。そうして認識された肉体としての他者は、自我としての「私」の鏡像です。つまり鏡が鏡をお互いに映し合っているのが自我の世界です。ここから自他の対立、そしてその無限のループは避けられません。

自他の対立に悩まされる存在となった「私」たちはいろいろなことを試み、その苦しみから逃れようとしますが、最後は一様に時間の中で死んでいきます。

もちろん死んでいくのは肉体としての「私」であり、「在る」という次元における〈私〉は死ぬことはできません。「在る」は物質次元ではないからです。

これは次元の混同による問題だと言ったのはそういうことです。

自我というのは次元を混同することによって起こる錯覚ですが、この錯覚によって時間と空間の物質次元が「リアル」な世界として立ち現れているとも言えるので、自我=時間・空間と言ってもいいかもしれません。

ですから、肉体の中に「私」という霊魂が宿っているという発想も自我の錯覚によりますし、肉体の一部である脳の中に意識である「私」が存在しているという錯覚も、肉体が「私」なのだから肉体が滅びれば「私」も消えるのだという虚無的な考えもすべて同様です。

聖書には「肉によって生きるのではなく、霊によって生きよ」というような言葉があります。「肉」とは肉体のことですから、「肉によって生きる」とは自我として生きることです。対して「霊によって生きる」というのは「在る」という次元における「本来の自己」に目覚めて生きるということです。

もちろん社会の中で生きる以上、肉体としての「私」を使って社会生活を送らざるをえません。社会は自我としての「私」たちによって想像的に仮想されたものだからです。ですから社会は、自我の形式、つまり時間と空間の形式によって構築されています。

なので、自我としての「私」と自我の形式によって仮想された社会とを切り離すことはできません。ある意味、自我としての「私」とは社会のことであり、社会とは自我としての「私」のことです。社会は鏡像だからです。

「私」には自分の顔を直接見ることはできません(目が目を見ることができないように)。ですが、鏡の中にある「鏡像」を自分だとつねに認識するように社会は求めます(だから身分証明書には顔写真が必要です)。それは一度も直接目にしたことのない「謎の顔」なのですが、それを自分だと認識することが社会で生きる条件になります。なぜならその顔は他者(=社会)の目に映る「鏡像」だからです。その鏡像を仮面のようにかぶって「私」たちは生きています。

本来の自己に「顔」などはありません。「肉体」もありません。

先ほど「肉体」は生きてはいず、それは「今、ここ」で生きている自己の「身」のことではないと書きました。

「今、ここ」とは「在る」の次元のことです(ですから「今」は時間のことではなく、「ここ」は空間のことではありません)。

「在る」の次元が本当の意味での〈生命〉であり、時間と空間における物質次元は、「在る」の次元の下次元への射影にすぎません。ですから「肉体」とは影であり、生きているとは言えないのです。したがって、そこに同化している「私」というのも生きていません。時間と空間における物質運動とは〈生命〉の活動ではなく、下次元へ映された影でしかありません。

プラトンの洞窟の比喩ではないですが、生まれては死んでいくように見えているのは本当の〈生命〉の運動ではなく、その影絵(=ヴァーチャル)でしかないのです。

では「身」とは何なのか。それは「心」と言っても同じです。「心」は「在る」の次元における純粋な意識です。その純粋な意識の場に映されているのが世界です。だから世界は「心」の中にあります。

ですが、転倒した自我の錯覚に陥ると、物質(肉体)の中に心があるなどという妄想が生まれます。だから時空の世界においては肉体の数だけ心が分裂している(ように見える)のです。

「在る」という次元における「心」に映された世界は、そのまま「在る」という次元の反映ですから時間と空間の形式によって存在してはいません。われわれがリアルだと錯覚している時空の世界は、自我の錯覚を通して、つまり時間と空間の形式によってそのように見えているだけです。

目の前にあるもの(たとえばコップ)は「私」という肉体に対して(空間的な意味で)前にあるのではありません。そのコップが〈私〉なのです。

目の前にいる人は「私」という肉体に対して「他者」という肉体として存在しているのではありません。その人が〈私〉なのです。

「在る」という次元における「心」の反映が世界であるということは、世界が〈私〉なのだということです。

そして、本当の世界は〈生命〉の影ではなくその反映として生きています。その生きた世界の活動そのものを「身」といいます。それが〈私〉の本当の生きた身体であるので、禅では「尽十方界是箇真実人体」(世界がそのまま一箇の真実の体である)と言われます。「身」とは肉体のことではない、というのはそういうことです。

そして「身」(=世界)は「心」(=自己)の反映ですから身心一如といいます。「一如」というのはワンネスという意味です。

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