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五月の5日間(day3)

# day3(Stockholm)

 「手に入れれば心が朽ち、手に入れなければ身体が朽ちる。どんな時代も夢や理想ってやつは本質的には変わらないんだ」
 時代を跨いで来たと話した僕に、スウェーデン人の紳士はそう言った。ストックホルムの喧騒から少し離れた坂の途中に位置するレストラン・ロルフズショーク。僕はたまたま居合わせた夫妻と過ごしていた。

 「いつからストックホルムへ?」
 「今朝来ました。ヘルシンキから飛んで来たんです」
 「あら、そうなのね。どこか観光した?」
 「アスプルンドの図書館と、それから森の墓地へ」
 「素敵ね」
 「このお店が今日の締めくくりです」

 何杯目かのビールとプレートが運ばれてくる。僕が通されたカウンター席からは店の中がよく見通せた。店の中心に位置するロの字型のキッチン、それを囲むようにカウンターがあり、さらにその外周にテーブル席が並ぶ。カウンターの奥の棚にはウイスキーやリキュールの瓶が整列し、壁には椅子が掛けられている。

 「たしか1989年だったと思う。この店がオープンしたのは。1989年。私と妻の青春時代さ。それから、ほとんど毎晩だよ。私たちは夕食をここでとる」
 「毎晩ですか?」
 「ああ、毎晩さ。すぐ近くに住んでいるんだ。坂を上がったところさ。ここで食事をして家に帰り、愛し合う。毎晩ね」
 「あなたったら、もう」
 「おっと、失礼」
 おどけながら、男はジャケットの胸ポケットからハンカチを取り出し、口を拭った。ラルフ・ローレンの仕立ての良いボタンダウンシャツに水色の麻のカジュアルジャケットを羽織った姿は、爽やかで理知的な彼の風姿によく似合っていた。
 実際、彼はとても若く見えた。ジェームス・ディーン風の眼鏡の奥にある瞳は力強く、生命力に溢れ、バイキングの血を感じさせる荒々しささえも纏っている。彼の年輪となっているのは手くらいなものだ。酒を煽る手の甲のざらつきや血の管の深さだけが、彼の歴史を感じさせる。それは旧い街の石畳の広場のように、そこに立つだけでわかる平和や争いを包含したある種の重さを抱いていた。

 「こんなことを言って気を悪くしないで欲しいんですが。なんというか、あなたたちは……そう、幸せに見えます。穏やかというか、安定しているというか、毎晩一緒にご飯を食べて、笑い合えるなんて……これを幸せという簡単な言葉で表現していいのかわからないんですけれど、僕にはそんな風に感じる」
 そう言うと、二人は顔を見合わせ、「あら、ありがとう」と妻の方が答えた。

 「君の国はどうだね?」
 「正直言って、まだわからないんです。いや、もしかしたらわかる日なんてこないのかもしれません。そもそも、どのくらいの大きさで、どのくらいの時間をかけて考えるべきなのか、はじめのところから手をつけられずにいる」
 「豊かさは複雑さを孕む」
 男は口元に手を当て、そう言った。

 「複雑さ……ですか」
 「君の国の地下鉄の路線図のようにね」
 「なるほど」
 「そして、複雑さが孕むもの……それは、不安定さだ。だから、みんながバランスをとってやっていかないといけない。いくつもの受け皿を持つ天秤のように。君がそっちなら、僕はこっちという風にね」
 「私たち夫婦もそうやってやってきたのよ」
 少し顔を赤らめた奥さんが、彼の肩に顔を寄せる。

 「豊かになるというのはそういう事じゃないかな? だから、安定というやつは動きの上にしか存在しないんだ。それは決して留まる事を知らない。忙しなく動き続けることが、大きな目で見れば安定をもたらす」
 「矛盾……」
 「そうだ、矛盾だ。時代も同じだよ。より洗練された未来は、より洗練された矛盾を孕む。だけど、それだって大事なことなのさ。必要悪とまでは言わないが、枯木の上にしか咲けない花もある」

 僕は地下鉄の走る姿を想像した。鉄の箱が都市の地下を駆け抜ける姿を。だが、僕に想像できたのはその内側の光景だけだった。つまり、シートがあって、吊り革があって、顔のない人たちがイヤホンで音楽を聴いている。窓の向こうには薄暗いコンクリートの壁があるだけで、時折、下水管の匂いが立ち込める。
 そこにいると僕らは止まっているように思える。だが、地上で、地下で、上空でさえも、あらゆるものが動き続けている。
 安定を求めて。



 「また会えるなんて嬉しいわ」
 彼女と偶然再会したのは、菩提樹の並木のトンネルをくぐり抜けたところ、つまり森の墓地の入口だった。

 「偶然じゃないみたいだ」
 「そうね」
 彼女と僕は瞑想の丘の芝生の上に横になった。眼下には花崗岩でできた巨大な十字架や鏡のようにそれを映す泉、火葬場や礼拝堂が見渡せる。

 「そういえば名前を聞いてなかったね」
 「セイカよ」
 「いい響きだ」
 「あなたは?」
 「シュウって呼んでよ」
 「シュウ」
 「何だい?」
 大袈裟に両手を広げ答えると、彼女は一つ前の時代の笑い方をした。

 「ねえ、日本にはどれくらい悲しいことがあるの?」
 「え?」
 「私はね、幸せなはずなの。だけどね、私たちの中にはいつも悲しみがある」
 「僕らだって同じさ」
 「どんなことに悩んできた?」
 「小さい頃は野球のこと。どうやったら下手くそでもうまく立ち回れるか。それから女の子のこと。どうやったらデートの誘いに応じてもらえるか」
 彼女はくすくす笑いながら話を聞いていた。

 「今は?」
 「今は……そうだな。例えば、ホームに着いた時ちょうど電車が行ってしまったとする。次の電車までは八分ある。そうすると僕たちは、その間どうやって有効に生きるかということに悩むんだ。携帯電話を開いて、本を読んで、音楽を聴いて、少しでも余白を埋めようと必死になる。僕は余白を埋めることにかけてはちょっとした権威でね。でも、そうしているうちに自分は、つまり本当の自分だと思っている何者かの手触りはどんどん遠ざかって行くように感じる。いつの間にか時代が変わっていたとしても」
 「つまり……」
 「何もかもがあって、何もかもが無い時代」

 『もしフィンランド化という言葉が、超大国に国境を接する小さい中立国は、力の現実にその政策を適合させねばならない、という意味に使用されるならば、それに異論はない』

 昔、誰かがこんな言葉を放った。
 僕らの現在は夥しい数の歴史や言葉の上にある。それを意識するにせよしないにせよ。

 「大きな鯨の横で泳ぐには、潮目を読む以上に鯨の考えを知ることが大切なのよ」
 セイカは起き上がり、十字架に向かって駆け出した。
 慌てて僕もその背中を追いかける。芝生がうねり、バッタが跳ね、小鳥が飛び立つ。

 ここにはたくさんの死が眠っている。
 広大な森の中、まるでその一部のように墓石が立ち並び、花が植えられている。その数だけ夢があり、悲しみがあり、怒りや、諦めがあったのかもしれない。だけど、その香りはしない。

 「ねえ、あれ見て。天国行きかしら? 地獄行きかしら?」
 十字架の上を飛行機が飛んで行った。指差す彼女のもう片方の手には、僕の本が握られていた。



 夜が騒がしくなってきた頃、店に団体客が入って来た。
 二組の夫婦にそれぞれ子供が二人ずつ。さらにベビーキャリーで母親の胸に抱かれた赤ん坊もいる。

 「あらあら、可愛らしい子供たち。こちらへどうぞ。赤子椅子も用意するわね」
 若い女性店員はチェック柄のシャツの袖を捲りながら、そう言った。そこには複雑さなどない。矛盾も存在しない。

 「……ちょっと失礼」
 奥さんはそう言うと、足早に店の外へと出て行った。

 「何か急用ですか?」
 「いや、きっと煙草でも吸いに行ったんだよ」
 「はあ……」
 酒が回ってきたのだろうか、彼女の様子には何か引っかかるところがあった。

 八人組の客は店の奥のテーブル席に通された。楽しそうな子どもの声が店に鋭角な活気を与える。その様子を横目に「赤ワインは飲めるか?」とスウェーデン紳士は尋ねた。頷くと、彼はメニュー表も見ずにオーダーした。

 「時代が変わったと言ったね?」
 「ええ」
 すぐにグラスが二つ運ばれて来る。

 「君は変われたかい? 君自身は?」
 「さあ、変わったような気もするし、まるで変われていない気もする。変わりたいのかもしれないし、すんなりと変化を受け入れたくないという自分もいる……」
 「悩んでいるんだね、自分の在り方に」
 「…………」
 「私たちは変われないままだったなあ。そして、もうそう遠くないところに終わりが見えている。不思議なもので昔のような恐れはないんだ。いっそのこと、一度終わってしまった方がいいのかもしれないとさえ思える。向こうでなら、きっと何も考えずに笑うことができるだろうから」
 誰かの笑い声がぽかんと空いた空間で踊る。奥さんの不在を埋めるように。こんな夜が何度もあったのだろうと思った。僕はここに来るのは初めてだった。でも、ほとんど確信に近い形でそう思った。こんな夜ばかりなのだ。きっと。

 「死産だったんだ」
 男はしばらくの間、何かを思索するようにグラスを傾け、それから独り言のように呟いた。

 「それから、酒が入っている時に赤ん坊を見るとああなる。どうにもならないみたいでね」
 こんな夜に、彼はいつも一人だったのだろう。彼女が家で打ちひしがれている時、彼はここでこうして赤ワインを飲んでいたのだろう。その光景は何度だって再生される。彼はゆっくりとグラスを傾ける。赤い液体が彼の舌に触れ、喉を伝う。味も香りも素晴らしい。彼の好みのものだ。だけど、そんなことどうだっていいのだ。彼は目を閉じ、また一つ魔法をかける。自分の無力さを呪いながら、少しでもその事実を忘れられるように。使い古した魔法は、彼をその液体とともに夜に溶け込ませていく。

 「それでも、私たちは幸せなんだよ。とてもね。君が言ったとおりさ。ほとんどの時間は穏やかに時を送れている。財産だって二人で生きていくには十分過ぎるほどある。これは幸せと呼ぶべきだろう?」
 やがて魔法は解ける。家に帰ると、彼女がベッドで横になっている。「煙草を吸っていたら眠くなっちゃって、お腹もいっぱいだったし先に床に就かしていただいたの。連絡しなくてごめんなさいね」といった様子で彼女はすやすやと眠っている。シャワーも浴びて、パジャマにも着替え、いつもと同じように彼女は目を閉じている。

 「だけどね、あの日から私と妻の間に出来た靄は晴れることがない。何度も試みてきたんだ。多少の傷を負おうとも、彼女の扉を開きたいと、またもう一度何も考えずに笑い合いたいと。それが出来るのは私しかいないだろう? でも、無理だった……」
 彼はその姿を見てようやく涙を流す。たまらなく悲しくなるのだ。それは彼女が取り乱しているときでも、一人取り残されて酒を煽っているときでもない。こうして家に帰り、彼女が眠っている姿を見たときに訪れる。

 「なあ、日本の旅人よ。こんな話をしておいてなんだが、私はそう悲観的になることもないと思うんだ。矛盾を感じるかもしれないけど、私はそう思っているんだよ。心の渦は消えない。私たちは矛盾を孕みながら生きてきたし、これからもまだあと少しは生きるだろう。今日と同じようなことを繰り返しながらね」
 彼は一つ息を吐く。

 「私には夢があるんだ。いつか森で死んだ息子と三人で笑い合うという夢が。すべての死者は森へ還る。古くから私たちの国ではそう考えてきた。だから、いつか森の中の木漏れ日の下でみんなと会えるんだよ。その時こそ私は、いや私たちは心から笑い合うことができるだろう。そう思うんだ」
 空になったワイングラスと引き換えにアクアヴィットが運ばれてきた。

 「いつも最後はこれさ。一口で飲み切る。そして帰路につく」
 アクアヴィット、命の水。
 なんだか彼は少し安心したような、彼の年齢に相応しい表情で笑った。

 「今日だって悪いことばかりじゃなかった。一つ夢も叶ったしね」
 「どんな夢です?」
 「こんな夜に君みたいな奴と酒を飲むって夢さ。話がしたかったんだ。きっと」
 そう言うと、彼はグイッとアクアヴィットを飲んだ。

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君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない