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五月の5日間(Take off)

# day5(Take off)

 空港のラウンジ・バーではハービー・ハンコックの『処女航海』が流れていた。
 隣では髭の大男が特大のハンバーガーを頬張っている。テーブルには彼の妻と三人の子供、それに彼の両親が揃って、同じように食事をしている。みんなしてむしゃむしゃとハンバーガーを口にする。トレイにケチャップが飛び散り、カールスバーグの大きなジョッキで男はフレンチフライを流し込む。その向こうを再現なく人が行き交う。長い休みが終わろうとしている。

 「お客さんはこれからお帰りですかな?」
 背の高いグラスの中をマドラーできっかり二回混ぜ、バーテンがジントニックをコースターに乗せた。

 「今夜の便で帰ります」
 「そうでしたか。旅は楽しめましたか?」
 「ええ。ここ数日は夢の中にいるみたいでした。実際、夢の中を彷徨っていたのかもしれない」
 「それはそれは」
 フィンランドのコスクエ・ジンを使ったジントニックは、爽やかさの中に植物の複雑な苦味が眠っている。

 「まあ、夢って言っても、そんなにいいものばかりじゃないですが。それでも見ないよりはマシだ」
 「わかる気がします」
 話しながら、バーテンはナイフで器用にアボカドの皮を剥いて、角切りにし、ボウルに入れると、オイスターソースをスプーンで垂らし、かき混ぜ、サンドイッチの具の下ごしらえをした。

 「ねえ、誰にも迷惑をかけずに生きるってことはできると思いますか?」
 その質問に彼が目を上げ、こちらを見つめる。

 「難しい質問ですな。それはつまり、誰とも関わりを持たずに独りっきりで生きれるか、ということでしょうか?」
 「うーん、どうだろう。例えば、ベッドに横になって、永遠に夢を見続けられたら幸せなんだろうか?」
 「あたしには理解できませんな。でも、幸せってやつは究極的には自分で審判するものです」
 「確かにね。それじゃあ僕を見てどんなことを感じますか?」
 「幸せそうに見えるかということです?
 「そういうことで構いません」
 「お言葉ですが、あたしたちは初対面ですよ」
 「だからこそ、忌憚のない意見が聞けると思って。あなたはここで数えきれないほどたくさんの人間を相手にしてきている。来る者も、行く者も、みんな」
 「そうですねえ……」
 「何か欠落を感じることはありません?」
 「あたしに言わせりゃ、誰だってどこかしらおかしいんですよ。緩んだネジを外れない程度に留めておく。テープやら接着剤やらで継ぎ接ぎしてね。歳を重ねるってのは、そういうことだ。子供は酒を飲まないから、ここに来るお客さんはみんなそういう人ばかりですよ」
 彼の手がプレーヤーのレコードに伸びる。これは誰の曲だろう? 音楽が変わる。

 「僕の国では時代が変わったんだ。つい、五日前に」
 「あたしたちの国でも時代は変わりましたよ。つい、百年ほど前に」
 「それで何か良いことはあった?」
 「子供が出来て、それから孫ができましたね」
 「それはあなたのことだ」
 「自分のこと以外に考えることなんてあります?」
 彼はグラスを丁寧に拭いた。そして、棚に置く。注文が入れば、棚からグラスを取り出し、酒を作る。客がそれを飲み干すと、またグラスは棚に戻る。時が積み上げられていく。

 「家族がいるっていうのは、つまり、愛する人がいるっていうのは、どんな感じなんだろう?」
 「そうですな、取り扱いの難しい暖炉がある、といった感じですかね」
 「暖炉ね」
 「暖炉。それは暖かい、冬の間はなくてはならないものだ。あたしたちは暖炉のおかげで、寒い冬の間も物語を生み出せる。だけど、夏はどうでしょう? みんな好き勝手に外へ遊びにいける。暖炉はそこにあるだけで、なんの意味も持たない。でも、手入れはしておかないといけない。そうしないと長い冬を越えられないですからね」
 バーテンはあっさりと「長い冬」という言葉を使った。彼のサイクルの中ではそれは「長い冬」なのだろう。一度乗り越えた者は無限を有限に変えられる。それがどんなに長く厳しい冬だったとしても、「長い冬」という言葉を与えてしまえる。もしかしたらそれも暖炉の効能なのかもしれない。

 「正直、自信がないんだ。誰かを愛しながら生きていく」
 「皆さんそうですよ」
 「惰性で生きてしまいそうで」
 「皆さんそうおっしゃいます」
 「それに……」
 「あなたは自分で物語を生み出せる」
 バーテンはカクテルを作るように、そつなく言葉を投げた。

 「そう、なのかもしれない。少なくとも、今はそうありたいと願っている。好きな本を読んで、好きな音楽を聴いて、僕は精一杯楽しんでいるんだよ。本当さ。雑な言い方をすれば、とても幸せだ。だけど、なんというか……」
 「損なわれている感じがする?」
 「あなたは作家にもなれそうだ」
 「失礼ながら……あまり多くを考えないほうがいいですよ。みんな案外、好き勝手にやっているだけなんだから。あなただけじゃないんだ。百パーセントの幸福なんてね、きっと手に入れないほうがいい。欠落は欠落なんですよ。どんなジャンルのものであれ、そこに大小や優劣はない。そして、誰もが何かしらの欠落を抱えている。それでいい。それよりも、あなたが選んでいるもの。例えば、時代の潮目にこうしてお酒を飲んでいられる事を愛するべきだと思いますよ」
 バーテンは歯を見せず、口角だけを上げて笑った。一昔前のクールな笑い方だった。

 「まだ自分をうまく納得させられないんだ。うん……だけど、あなたには感謝してる」
 「つまるところ人生ってやつはただの器なんです。そこに注がれているものにこそ目を遣った方が良い。今だってそれは注がれている。あなたが意識した時にはいつだって」
 「一杯だけ付き合ってくれるかい?」
 「一杯だけ、私から贈りましょう。彷徨える旅人に」
 そう言うと彼はショットグラスにウォッカを注いだ。



 飛行機は中性的な空気に包まれていた。
 日本でもフィンランドでもない、その中間の空気。旅に出る者のものでも、家に帰る者のものでもない、中性的な空気。

 シートの番号を確認し、荷物を上げる。機体は静かに成田へと向かう準備を進める。
 隣のシートの恰幅の良いラテン系の中年男性は早くも寝息を立てていた。その向こうでは、若いフィンランド人の男が窓の外を見つめている。静止した窓を雨粒が覆っていく。
 画面に地図が出ている。ヘルシンキを発ち、成田まで。ユーラシア大陸の上空を通過しながら、飛行機はいつもより少し余計に時間を進める。地図の上にいくつかの都市の名前が表示されている。行ったことのある場所と行ったことのない場所。知っている場所と知らない場所。世界にはいくつかの場所があり、僕らはそれを選んでいる。
 地図を見たとき、世界の有限性をまざまざと感じさせられる。地図。どうしてこんなものを作ってしまったのだろう? 人間の飽くなき好奇心。定規をあてただけでどこへだってアクセスできてしまえそうだ。そして、実際にそれは事実なのだ。空はどこまでも繋がっている。その気になれば、たいていの場所には行けてしまう。それが苦しくて、僕らは旅をする。

 どこでもない場所が好きだった。
 そんなことを思い出した。それは旅の途中、ふと窓の外に目を遣った時のどこか。飛び立った飛行機の眼下に見る、湖畔や郊外の空き地や田園地帯の畦道……名もなき土地、そこは異世界。夢の中。
 そうやって世界を見たとき、都市の領域はほんの僅かしかないことに気が付く。都市。そこではあらゆる物事に名前がつけられる。僕らは都市で暮らす。あらゆる名前に囲まれて。
 名前がないものは理解されない。差別され、虐げられてしまう。名もなき場所を目的地にすることはできない。だから名前をつける。そうすることで心の安寧を探す。
 名前をつけること。それはピリオドを打つことと同じだ。端から端まで距離を測り、形を与え、なるほどこれはこういうものかと握りつぶす。名前を与えられた瞬間、魚は水槽に入れられ、鳥は鳥籠にいれられ、ライオンは檻の中に入れられる。もう、飛び出すことはない。鍵をかけられ、そして、飼いならされていく。
 二十一世紀、僕らは何にだって名前を与える。飛行機にも、線路にも、靴ベラにだって。名前がないものが好きだった。名前のない感情を纏っていた。名前のないものが減っていった。それが悲しかった。だから、僕は名前のないものを作り出したんだ。ときに誰かを傷つけて、無理矢理に。

 新しい時代が来た。
 それにもあっという間に名前がついた。
 運転手は朝焼けの空を背に湾岸線を飛ばしていった。アクセルを踏み、古い記憶からどんどん離れていく。女学生たちはいずれ散り散りになり、それぞれの幸せの形を見つけるのかもしれない。スウェーデン人の夫妻は、森に向かってゆっくりと歩いていくのだろう。時折、一歩、二歩、来た道を引き返し、その分二歩、三歩と余分に進む。歩みを止めることはない。迷うこともない。一喜一憂しながら、気まぐれな行進を繰り返す。
 婚約者は海の見えない街で暮らしている。海の見えない街。僕が彼女について知っていることはそれしかない。もう別の恋人を見つけ、もしかしたら結婚しているかもしれない。僕と寝た女の子は社内の別の男と一緒になり、会社を辞めた。子どもができたらしい。酒の席か何かで誰かがみんなに彼女の写真を見せていた。幸せそうに子どもを抱く彼女の写真を。
 「でもね、鞄の中は空っぽだった。何も入っていなかったの。そんはずないと思った。隅々まで探したわ。それでもないの。心拍数が上がって、汗が止まらなくなった。最初は慎重に探っていた手もいつからか乱暴になり、汗は鼻先から零れ落ちて、鞄を濡らした。興奮していたのね。だけど、いくら探してもそれは空っぽだった。吐き気がするほど不愉快だった。ふざけんなって思ったわ。だってそうでしょう? そうじゃない? そんなことってないと思わない? それからよ、私の心にポッカリと穴ができた。なんでも飲み込んでしまうブラックホールが。どんな風に過ごしても倦怠感が抜けないの。不感症というか、心の箍が外れなくなったというか。どんなことにも満足できないの。感情が溢れる前に飲み込まれてしまうのよ」
 婚約者の母親はそう言った。

 僕も帰らないといけない。
 新しい時代のはじまる場所へ。
 何もない場所へ。



 かつて、彼らはひとつだった。
 ひとつの心とひとつの身体で生きていた。
 同じように泣き、同じように笑い、同じように腹を空かせ、同じように食べた。同じ景色を見て、同じ記憶を抱え、同じ言葉でそれを表現した。
 当たり前だ。ひとつだったのだから。
 彼らは完璧だった。
 完璧な個であり、完璧な全だった。

 そんな彼らを妬んだ誰かが、罠を仕掛けた。
 ふたりを引き裂こうとしたのだ。
 彼は、彼女は、まんまとそれに引っかかってしまった。 
 ある朝、目覚めるとふたりは別々になっていた。

 彼は、彼女は、ひどく落ち込んだ。
 もうあの充足感は戻ってこないのだと。あれほど満たされることは二度とないのかもしれない……と。それでも手を取りあい、言葉を交わしあい、確かめあった。互いに求め合い、それぞれに欠落した空白を埋め合わせるように過ごした。かつての完璧さは失ったものの、それはとても純度の高いものだった。九十五パーセントくらいはきっと満たし合えていた。彼らは慎ましく、幸せに暮らした。

 だが、世界の悪はそれさえも許さなかった。
 夜のうちに彼らを別々のボートに乗せ、鉛色の海に放り出したのだ。海流が乱れ、二艘のボートはふたりを東と北の辺境に流した。時の篩にかけたのだ。だが結局、時代は彼らのどちらも選択しなかった。

 そして、一九八九年のある日から彼はシュウとして、彼女はセイカとして生きはじめることになった。
 彼らは互いの名前も知らない。記憶も手触りも随分と離れてしまった。それでも彼らは生き続けた。それぞれに自分の欠落を補おうと、一人で完璧な状態に近づこうともがいた。
 でも、それはとても難しいことだった。当たり前だ。二人分の記憶を一人で抱えるのだから。一人の幸せを二人に分け与えるのだから。二人の悲しみを一人で背負うのだから。それでもふたりは真剣に探し求めた。どこかに探し物はあるはずだと、何度も行き交いながら。だが二人を引き離す呪いは強く、彼女はやがて長い眠りにつき、彼は空っぽになりひとり漂った。

 そして、お互いのほとんどすべてを忘れてしまった頃、彼らは偶然再会する。時代が変わったのだ。世界が時代を跨ぐ。その裂け目。そこに呪いを解くチャンスがあった。何かを変えることのできる瞬間があった。彼女は「Kiitos(キートス)」と言ってはにかむ。ふたりはそれぞれの辿ってきた時間を、捲ってきた頁を交換し、見せ合う。ビートルズの音楽がふたりの壁の上空で、隔たりを超えて流れている。



 「お忘れ物はありませんか?」
 「ないよ」
 ホテルのコンシェルジュは、僕の手からルームキーを預かると、眼鏡を上げ、パソコンの画面に目を遣った。

 「でも、忘れてしまったことならたくさんある。時代を跨いできたんだ」
 いくつかの文字の羅列が画面の上を踊る。積み上げられていく情報、システム。

 「時代を……ですか。私どもも、ある意味では時代を越えるお手伝いをしているのかもしれません」
 カタカタとキーボードで何かを打ち込みながら、コンシェルジュは言葉を続けた。

 「お客さまに物語を提供するのが私どもの仕事ですから。この場所には日々、たくさんのお客さまがいらっしゃいます。東から西から、北から南から。毎日のように新しい風が吹いては去っていく。風が吹くたびに私どもは仕事をするんです」
 「風ですか」
 「私の個人的な表現です。夢の萌芽みたいなものでしょうか」
 「休むことはないのかな? 君たちだって、その、大変なときもあるんじゃないか? いや、ほとんどそうだとも言えるかもしれないけど」
 「私どもに休みはございません。お客様がいらっしゃらない日があるだけです」
 「でも、君たちの物語は終わる。永遠の休暇だ」
 「終わらせるのは私どもではございません。物語はお客様のものですから。お休みになられるのもお客様の方です」
 「じゃあ、なぜ物語は終わる?」
 「それは私どもにもわかりません。誰も承知できないことなんです。例えるなら、事故みたいなものですかね。車に轢かれてかもしれないし、壊れたビルの下敷きになってなのかもしれない。でも大抵はもっと小さな事故です。世間は事故で溢れている。新聞の見出しにならないような小さな事故がたくさんある」
 「事故ねえ……それなら僕らはどうすればいい? どうすればそれを防げる?」
 「そんなことは想像するだけ骨折り損ですよ。事故ってやつは大抵の場合、想像の及ばないようなところからやってくるものですから」
 「それじゃあ、ここに来る意味がない。どんな時代だって生きる意味がない」
 僕はムキになってそう言った。

 「実際のところ、それはほとんど正解と言っても過言じゃないでしょう。惰性で生きようと、物語を紡ごうと、あなた様の生きた時間は、きっと世界全体の秒針さえも進められない。私たち一人一人の力というのはそれくらい瑣末なものです。例えば、あなた様がお帰りになった後、私どもは念入りに部屋を掃除します。床も壁も窓も隅々まで抜かりなく、徹底的にやります。あなた様がここにいたという痕跡は、殆どゼロになるでしょう。それが私どもの仕事ですし、私どもはそういうところをしっかりとこなす方なんです。部屋には髪の毛一本たりとも残さない、シンクの水滴もすべて拭き取る。ドアノブから引き出しの取っ手まで指紋ひとつ残さない。一見すると、新品の部屋に生まれ変わったように思えるほどです。それくらい私どものサービスは行き届いている。抜かりはない」
 コンシェルジュは、こちらを見て言い聞かせるように話した。

 「だけど、そんな私どもでもそれを、つまりあなた様の痕跡を、まったく無かったことにすることはできません。どれだけ入念に仕事をしても、完全に消し去ることはできないのです。部屋に泊まるお客様は気付かれないでしょう。でも私どものようなプロフェッショナルにはちゃんとわかるのです。いくら念入りにやっても、そこにはあなた様や他の皆様の生きた時間が確かに刻まれていることを。そして、刻まれた時間は、痕跡は、連鎖して、またあなた様のもとへ繋がる。そうやって、あなた様もここへいらっしゃったのではないですか? つまり、ハンド・オーバー。連鎖です。あなた様がチェックアウトしたお部屋には、今夜別のお客様がお泊まりになる。翌日にはまた別のお客様が……そうやって続いていく。その度にすべてはリセットされているように思えます。だけど、そうじゃない。私どもがいくら窓硝子を磨いて、掃除機をかけ、ベッドメイクをして、新しい物語を生むために過去の痕跡を消そうとも、この連鎖は止められないのです。つまり、あなた様が捨ててきたもの、忘れ去ってきたものも必ずどこかに繋がっている。記憶を消すことはできません。もしかしたら、忘れ続けることはできるかもしれない。それだってあなた様次第だ。だから、あなた様はあなた様としてそれを引き受けていくしかないんじゃないでしょうか? 良きにつけ悪しきにつけ……失礼、少し長く話し過ぎてしまいました」
 コンシェルジュは口元に手をやり、コホンと一つ咳をした。

 「ううん、ありがとう。君が教えてくれたのは、その……ヒントみたいなものなのかな?」
 「ヒント……そんないいものじゃないですよ。言葉を与えるなら、そう。教訓ですかね」
 「教訓……ね」
 「チェックアウトの手配は済みました。お忘れ物はありませんか?」
 「……ないよ。きっとね」
 「また、いらしてください。私どもはいつもここにいます。いつだって、休まずにね」
 「勤勉なんだね」
 「ええ」
 そう答えるとコンシェルジュはにこりと笑った。それはホテルマンとしての笑顔ではなく、彼自身の笑顔だった。

 「それじゃあ」
 「気をつけて行っていらっしゃいませ」



 「痛みや傷を通してしか、僕らは分かり合えないのか? 繋がれないのか?」
 彼女のことを思い出すたびに僕はそんなことを思う。
 気が付くと、ベッドサイドに置かれた本は僕のものに戻っていた。不思議なことに、僕が思い浮かべる彼女の世界にはいつも雪が降り続いている。

 彼女は再び夢を見ているだろうか? 瞳を閉じ、耳を塞ぎ、凍ってしまったかのように。
 ストックホルムを後にした僕は、彼女を探して三日間ヘルシンキの街を歩き回った。だが結局、彼女は見つからなかった。行き先はもちろん、昨日まで手に取るようにわかった彼女の心さえ、僕にはわからなくなった。それでも目を閉じると、彼女の不在を感じることができる。それは、誰かの掛けていた揺り椅子のように、机に放られた読みかけの頁のように、まだ確かな温度を持ってそこにある。いなくなった彼女が、つまり僕の中の欠落がまだ息をしていることを感じる。

 森の墓地で彼女は何度も振り返って十字架を見た。革靴が砂利道を鳴らす、山鳩の鳴く声がする。空はブルーで高木の影が長く伸びる。
 僕らはひとつになるべきだったのだ。それしか、解決の手立てはなかった。きっとあの時、あの場所がすべてだったのだ。どんな手を使ってでも、僕らはひとつになるべきだった。だが、もう遅い。

 「大事なものを失ったのか? いやそうじゃない。初めから空っぽだったのだ。いや、そうかな?」
 前の時代に置いていくもの、次の時代に持っていくもの、そのどちらでもないものを選別する。井戸を掘り、胸の奥に埋もれていた記憶を掬い上げた時、自分は何一つ変わっていないことに気がつく。無くしたものはあっただろうか? ない。でも、磨り減っていくものはある。それは緩やかな日常の中で、地層の動きのようにゆっくりと、当たり前のように奪われていくもの。

 またいつか時代が変わるようなことがあれば、僕は思い出せるのかもしれない。何か大切なことを、もう取り返しのつかなくなってしまった何かを。セイカのことを、運転手のことを、女学生たちのことを、スウェーデン夫妻のことを、婚約者のことを、婚約者の母親のことを。あるいは、いつかそう遠くない未来に、穏やかな口調で「時代が変わった頃、僕にはこんなことがあったんだよ」という風に誰かに語りかけているのかもしれない。

 ひとりぼっちになって、森の墓地の十字架を振り返った時、もう二度とここには来ないだろうと思った。彼女に会うことももうないだろう。でもそれはいつだって、何に対してだってそうなのだ。
 隣の男は相変わらず眠っていて、その向こうの青年は窓の外を見続けている。時代が変わろうと、五月にだって、六月にだって悲しみは、喜びはきっとある。いつだって、誰の隣にも。

 何度も言い聞かせて、何度も反故にしてきた。
 この美しい景色を忘れないようにしよう。
 この胸の痛みを忘れないようにしよう。
 この手の温度を、口癖を、声の嗄れ具合を、目脂を……この風を、鳥の声を、陽の光を。

 「戻って来なよ、元いた場所に。戻ろうよ、君の居場所に」
 頭の中でまた音楽が再生される。
 キュイーンと甲高い音を立て、何かが蠢く。鈍い振動が足元を伝い。飛行機のエンジンがかかる。この瞬間、僕はいつも言いようのない高揚感に包まれる。

 「帰るんだ、僕の居場所に。帰るんだ、僕の居場所に」
 囁き声がする。それは僕の声だ。
 窓の外の白線が早送りされる。風を切る音は宇宙まで届きそうなほど強い。ああ、また忘れていく。ああ、また掴めないまま。ああ、ようやく戻れる。もう何も感がなくてもいい。もう何も感じなくてもいい。物語はいつも突然で中途半端だ。「それはあなた様が選んでいるのです」コンシェルジュが言う。そうかもしれないね。「あなたは自分で物語を生み出せる」バーテンが言う。本当か? どんな世界でも、どんな時代でも、やっていけるような物語を僕は紡ぎ出せるのか? 自分に与え続けられるのか? 「あなたもこっちに来て、私と寝ましょうよ」セイカ、君は間違っているよ。きっと。でも、それを理屈付ける言葉を僕は持っていないんだ。壁からポスターが剥がされていく。投げ捨てられたそれは螺旋状に回転し、落ちていく。僕はそっと目を閉じる。

 そして今、離陸する。

(終)

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君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない