見出し画像

何かを選択することは、同時に、何かを選択しなかったことである。

同じ寮には17人の学生がいて、私以外はすべて10代から20代。これから働くためのキャリアに繋がる手段としてこのプログラムに参加し、その後の大学の学士過程、修士課程の専攻もしっかりと決めてきている。
そんな彼らと将来の働き方について話していると、目標をしっかり持って、目的意識を強く持って異国の地に学びに来ている彼らに、なんとなく引け目を感じてしまう。

「このプログラムを終えたら、引き続きsustainable communicationを学びたい」「new media designを専攻したい」「ノルウェーの大学でengineeringを学びたい」など、将来への道がまっすぐ延びている感じがする。

それに引き換え私は、「留学してみたい」だけで仕事を辞めて参加し、プログラム終了後は「何も決まっていない」のだ。本当にこれでよいのか。
クラスメイトの彼らに問われて「何も決めてない」というと本当に驚かれるし「大丈夫?」「相談乗ろうか」と心配されて(みんな、とても優しい)、「こんな大人でごめんなさい」と哀しい気持ちになったりする。

何かを得れば、何かを失う。
これは本当かもしれない。

スウェーデンに来てから2週間経ち、そんなことを考えていたけど、クラスメイトと話していて、慣れ親しんだ環境から離れて初めてばかりの居心地の悪い環境にいるからそう感じているのかもしれないと気付いた。
みんな異国の地に来て、慣れない環境にストレスを感じていて(当然だよね)、「眠れないんだよね」「変な時間に起きる」などと話していたら、クラスメイトのひとりが「自分のcomfort zoneを抜け出てるんだから当然よね」と言った。

慣れ親しんだ居心地のいい環境を失ったと感じているんだなと、その時思った。以前の記事(Outside the Comfort Zone)でも書いたけれど、失ったのはこれまでのcomfort zone(居心地のいい環境、状態)であって、今は慣れない環境で新しいcomfort zoneを作り、自らのcomfort zoneを拡げていく過程にいるのだ。

“Get Out of Your Comfort Zone”
--Steve Harvey 

何かを選択することは、同時に、何かを選択しなかったこと(私の場合、留学を選択して公務員という安定した仕事を続けるという選択をしなかったこと)であるということは紛れもない「事実」だけれど、それは「真実」とは違うのかもしれない。


この記事が参加している募集

#習慣にしていること

130,749件

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートは、スウェーデンでの留学生活の発信に使います。