見出し画像

人である事を忘れた世界

最近、某有名YouTuberさんの動画を見ていて
小学生、中学生が20〜40代の男性とお付き合いをしている事実をよく耳にする。

日常の中で現実として体感することは殆どないのに、これはある現実として世の中に存在しているらしい。

とー横キッズというものもそうらしい。
これが犯罪だということが双方ともにわかっていないのか
或いはわかっていて行うのか
どちらにしても

こうした現実が今の日本に沢山存在しているのだということを、このYouTube配信から知れる。

このYouTuberさんはリスナーからの困り事の仲裁役になる代わりに配信させてもらうというもので、その仲裁内容を聞いていると、やや犯罪めいたものの介入をされていたりもする。

私はこれをみていると本当にいつも思うのだが、昔はおせっかいだけど間に入って話を聞いてくれる大人が当たり前に存在していた。仲人なんかもその一つであったと思う。今はそういう大人はいない。
というか、なんだろう。昔よりも利害関係で動く人ばかりの世界になっている気がする。

とはいえ、そんな風に他人の介入を煩わしいと感じるのが当たり前になったのはいつ頃からなんだろう。
利害関係で成り立つしかない人間関係に
嫌気がさしたかのように。

自由になりたい

そんなキャッチフレーズに沢山の人が共感して、その共感した人たちが集まるようになった。それが、ネット上という現実のようで現実ではない別次元の中で。

私はふと思った。

別次元で「自分」というものを見出しそこでのつながり、そこでの自分として生きることを選択したときから、

人は人であることを手放しているのだ、と。


人が人として生きる喜びを見出せなくなっていることの象徴が

最初の小学生と大人の交際であったり、とー横キッズと呼ばれるものではないだろうか。

か弱い子供や女性だって、人として生きる喜びをきちんと感じている人たちにとっては、
現実逃避自体に魅力はない。別次元の自分への憧れや希望を見出すことはない。

これが今の日本、もしくは世界レベルのなかで多くの人が抱えている一番大きな問題だと私は感じる。

ではなぜ生きることの喜びを見いだせなくなってしまったのか。


感受性 という言葉がある。

感受性が高いとか低いとか
そういう表現で言われることが多い。
私は人間、或いはこの世界の全ての存在が
すべて感受性というものを持ち合わせている生き物で、その事に対しておのおのの感受するものや度合いはあれど、それを基準化して比較できるものでは無いと思う。
感情や感受性そのものが科学的に証明されるようにも、いつかなるのだと思う。

故に高いとか低いという表現は
ある意味で間違いだと感じる。

一つの現象に対して、一人一人違う感受を持っている。それが人間なのだと。

ただ、個々の人間のなかで共通している部分もあるが、それは感受性の問題ではなくて、倫理的な部分であると思う。

ただしそれすら、こうあるべきだとかこうでなければならない、といったように自分外から強いられるものでなく、自分としてはこう思う、というものが、似てくる、同じくなるものであり、
それこそが「民度」というものに当たるのだと思う。

日本人は民度が高い、というのを聞いたことがあるが、それが強要されたものでもないことはいうまでもない。

ただこれも高い低いという基準が明確ではないだけに、果たしてその表現は適切なのだろうか、と感じたりもする。

話は戻るが、
各々の感受されているものの中に、人として生きる喜びが本来は在る
それに関しては、生まれて人間として肉体が成長する過程の中で、それを実行している人がそばにいるかどうかで決まってしまうのではないかと思う。
一番身近な存在である親だったり、
もしくは親以外の大人かもしれないし、毎日共に過ごす友人かもしれない。
それは人によって違うけれど、そうやって人は自分の周りにいる人たちから何かを吸収しながら、自分自身を作り出していく。
それは死を迎える瞬間まで、ずっと続いていく。

自分の人生を、他人のせいにすることは非常に容易くて、一番早い「逃げ」である。

けれどもきっと、そのことで一番傷つくのは自分自身だということを、本当は心の何処かで気付いている自分がいて、そのことを認められなくて、ひとは、本来の自分が感受することのなかから喜びを見出せず、苦しんでしまうのだろう。

このことは、絶対にお金では解けない。
そして欲望を満たすことでも、解くことはできない。

人は最低限の欲を満たし利他のために生きることが本質とされているが、
本来利他のために生きるということを為し得ることができるのは、まさに人として生きている人間にしか、できないことなのだと思う。

そのために必要な事のひとつが

利害関係だけじゃなくして成り立つ人間関係


だと思う。
その見出し方を、きっと皆が
模索しているのではないだろうか。



もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)