歴史の断片はゴミの中にもある
『歴史の屑拾い』藤原 辰史【著】
一つのまとめた歴史書ではなく、それらにまつわるエッセイ。断片のようなものだが、それらはこぼれ話的な屑(本に収められなかった話)を拾い集めたものなのだろう。ボードレールの詩でパリの屑拾いはその集めた屑によってその土地の歴史を知るというベンヤミンのボードレールの歴史論から、一見関係なさそうなものが歴史的に繋がっているという。大学の講義から若手研究者時代の資料の集め方から影響を受けた本まで面白い話も退屈な話も。そこから専門家以外の人が歴史の中で自ら関係してくるものが歴史を作っていたり、学ぶべきものがあるという。
最初の書き出しがベンヤミンによるボードーレールの考察で、そんなエッセイかと思ったが、大学での講義、研究者としての苦労話、となってけっこう固いエッセイだった。「一次史料の呪縛」で資料集めがぺいぺいの研究者は大変だという話だったが、大作家になると編集者が資料を集めてそれで執筆するのだということは、松本清張『昭和史発掘』には藤井康栄の存在が大きかった解説で加藤陽子が書いていた。
また松本清張と共産党スパイ事件で主張がずいぶんと違うと思った立花隆『共産党の研究』も編集者は花田紀凱だったということで彼が資料を集めたのだった。そんなに膨大な資料を集めるだけで大変だと思ったが、ある程度編集者スタッフ力がものを言っていたのだと思った。
また直接歴史に関わらない作家や漫画家による歴史のアプローチに興味深い拡がりがあるという。例えば手塚治虫『アドルフに告ぐ』ではナチスのヒトラーと神戸いるアドルフとユダヤ人のアドルフ。それはヒトラーがユダヤ人であったという偽情報をフィクション化したものなのだが、日本とドイツ、さらにパレスチナまで手塚治虫の思考が広がっていく。歴史学者だと狭い思考を深くということで広がっていきにくいということだった。それが手塚治虫も今もなお読まれ続けていることなのである。