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オウム以降の暴力性の問題

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』村上春樹X河合隼雄(新潮文庫)

村上春樹が語るアメリカ体験や1960年代学生紛争、オウム事件と阪神大震災の衝撃を、河合隼雄は深く受けとめ、箱庭療法の奥深さや、一人一人が独自の「物語」を生きることの重要さを訴える。「個人は日本歴史といかに結びつくか」から「結婚生活の勘どころ」まで、現場の最先端からの思索はやがて、疲弊した日本社会こそ、いまポジティブな転換点にあることを浮き彫りにする。

出版社情報

対談はオウム事件の後で春樹がアメリカ生活から日本に戻ってきた頃で(1995年11月)は村上春樹はそれまで個人主義的だったが日本に対して興味が湧いてきた頃だという。作品だと『ねじまき鳥』を書き終わって、『アンダーグランド』などのノンフィクションを書いていた時期。その後に『1Q84』が書かれることになる。

オウム事件によって国家に対する暴力と社会に対する暴力が表面化する頃で、前半は「癒やしの物語」についてであり、後半は「暴力」について興味ある対談が行われていた。

60年代に大江健三郎なんかが描いていた暴力は「ラブ&ピース」という国家や社会に対する抵抗としての暴力であった。オウム事件で稚拙な物語の中に取り込まれてしまった暴力というもの(それはアニメやTVというもので安易に表現される)、そうした暴力の変質について、人間が生存するためには他者に対する暴力は必然だと思われてきている。

その最悪な道を辿るとかつての日本の軍隊のようになってしまう。その反動としての暴力を排除した平和憲法が通じなくなっていく世界の中に、日本の姿を見出すのだ(村上春樹はアメリカ資本主義寄りだと思うが)。

ただ村上春樹はそこに痛みを伴わない暴力は駄目だという(ジェノサイドになるからか?)。

興味深いのは個人の持つ暴力で村上春樹が関心を持ったのはゲイリー・ギルモア『心臓を貫かれて』を翻訳したからだという(その後にノンフィクション『アンダーグランド』が書かれることになる)。ゲイリーはモルモン教徒の家庭に生まれて絶望した世界観の中で死刑廃止が行われたアメリカで死刑になりたくて連続殺人を犯していくのだが、それが死刑論者を呼び覚ますことになっていく。それはオウム事件とも関連することだと考えていたようだ。

まず殺人犯が相手の立場に関係なく自分本位の理由で殺人を犯すこと。その暴力性は人間の本質的なものが在るのだろうか?弱肉強食と言ったり生きていくためには肉食であるという業を抱えていていたり。その欲望の解脱として仏教があったはずなのに、オウムのような新興宗教が出てきてしまった。この問題は今現在も日本人の生き方に大いに関わることだと思う。

河合隼雄は宗教的なものは心理学では対処できないと言うのだ。それは科学の限界に宗教は対峙していくもので、実際にそういう成果も見出していく。そうするとそういう宗教に進む人は止めることは出来ないという。ただ戻れる場所を確保することは必要なのだが、現実社会の方に過ちがあるならば社会に適応させることも不可能なのだ。

現実生活で病んでしまった者の救いのための文学ということだろうか?


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