【掌編小説】奥さん

 郵便配達の途中で、葬式を見かけた。

 塀に囲まれた瓦屋根の日本家屋に、白黒の花輪と喪服の人々が列を成していた。
 どうやら、その家の主人が死んだらしい。並んでいるのは、主人の生前の知人だろうか。会社の重役と思しき老人が沈痛な面持ちをしていたり、後輩と思しき何人かの若い男女がさめざめと泣いていたりして、会社でもさぞ信頼を置かれていたのだろうと私は思った。

 そして、彼ら一人一人に、丁寧に挨拶をする女性がいた。
 喪服に身を包み、白いハンカチで零れる涙を押さえ、言葉を詰まらせながらも健気に応対している。烏の濡れ羽色の髪と漆黒の喪服のせいで、血の気が失せた顔は新雪のように、ふっくらとした唇は椿の花弁のようにも見えた。
 ああ。彼女は、死んだ男の奥さんなのだ。
 私はぼんやりとそう思いながら、奥さんから目が離せなくなっていた。


 その日から、奥さんは黒い服ばかり着るようになった。
 以前、着ていたであろう暖色の服は、全て箪笥の奥にしまい込んでしまった。
 黒い服から、ほっそりとしたうなじが覗く。髪を高く結っていたため、白いうなじに後れ毛が散りばめられていて、何とも言い難い色香を漂わせていた。

 奥さんは、一日の大半を仏間で過ごしていた。
 仏間に布団を敷き、仏間で食事をし、仏間で夫の遺骨と対面し、思い出をぽつりぽつりと語っていた。一緒に行った熱海の温泉は良かったとか、また箱根のロープウェイに乗りたかったねとか、そんな思い出話を語る時だけ、奥さんは優しく微笑んでいた。

 夫の遺産は多く、食うに困らない生活が待っていたが、奥さんはそれで贅沢をするでもなく、質素な服に身を包み、質素な暮らしを続けていた。
 よく手入れされていた庭木の形が、少しずつ崩れていった。
 立派な塀が、土埃で汚れていった。
 それにつれて、奥さんの頬もこけ、手首も細くなっていった。


 どんなにやつれても、奥さんは美しかった。
 ある日、夫の後輩であった若い男が、線香をあげさせてくれと仏間にやって来た。
「奥さん」
 若い男は、やせ細った奥さんに迫った。
「こんな生活を続けては、あなたが駄目になってしまいます。あの人に比べて、頼りない男かもしれませんが、どうか、僕に奥さんを支えさせて下さい」
 若い男は、奥さんの手を取る。奥さんは、驚いたような表情で彼を見つめていた。
 しかし、たった一言、「いけません」と返した。
 躊躇いもなく、嗜めるようなその一言に、若い男はうなだれた。彼は、「申し訳ございません」と頭を下げると、肩を落としながら去って行った。

 四十九日を迎えて、夫の遺骨は墓の中へ行くことになった。
 遺骨を持って行く奥さんの背中はとても小さくて、そのまま消えてしまいそうだった。

 しかし、奥さんは、ちゃんと家の仏間に帰って来た。
 青ざめた様子で、すがるようにこちらへやって来る。私は慌てて、闇の奥に引っ込んで、息を潜めた。
「確か、仏間の押し入れに入っていたはず……」
 奥さんはそう言って、押し入れの衾を開けた。

 闇で満たされていた世界に、外界の光が入り込む。闇に慣れた私の視界が、真っ白になった。
 奥さんは、押し入れの中に上半身を突っ込み、必死になって何かを探している。
 私の目の前に、鼻筋が通った奥さんの横顔があった。焼香の匂いが、ふわりと鼻先を掠めていった。
 奥さんは何を探しているのだろうか。私は、目の前にある段ボール箱を、奥さんの方へとそっと押してやった。
 すると、別の方向を探していた奥さんが振り向く。奥さんは、闇と一つになっている私に気付かず、段ボール箱を見てハッとした。

「あった……!」
 段ボール箱の中には、色褪せたアルバムが大量に入っていた。
 その中の一冊を、奥さんは手に取る。アルバムには、若い頃の奥さんと夫の写真が収められていた。熱海旅行の写真も、箱根旅行の写真もある。
「よかった。ちゃんと残っていて」
 奥さんは、夫との思い出に浸る。やせ細った顔に、至福の表情を浮かべて。
 彼女の心は思い出の中にいて、亡き夫と昔の熱海や箱根を巡っているのだ。
 アルバムの中の奥さんは、若くて美しかった。でも、今の方がもっと美しいと私は思った。
 そんな奥さんに、手を伸ばせば触れられる。だが、私はそうしなかった。私は、奥さんと今の関係を崩したくなかった。

 陽が傾くまで、奥さんは押し入れの前でアルバムを見ていた。私は息を殺しながら、押し入れの中からひっそりとそれを見守っていた。

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