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無意味なものに救いをみるとかしていて

意味のある事をたくさん教わってきた。意味のありそうなものが発信されていれば、「取り込まねば!」と近づいていった。それらのおかげで私は子供から大人になった。 ただ、意味があるものを吸収しようとする時の私は、大小あれど基本的に不愉快なのだ。

意味があるものは筋が通っていて完成されていて揺るがない。そういうものには私の存在が関与する隙というのは一切ない。私がそれを知覚しようがしまいが、意味があるものは意味を持ち続ける。それが冷たい。
つまらないし、寂しいし、不愉快だ。

あとこんな側面もある。
意味のある事を沢山詰め込んだら、そんな自分は凄く意味のある人間だという錯覚が生まれ、意味がある人間だからその分の価値がある人間だという妄想が起きて、自分より価値が無さそうな人間を見くびったり、自分より価値がありそうな人間を羨みだしたりするみたいなこと。間違ってるけどよく起こりうること。
 


人間は何の意味もなくても、生まれたからには死ぬまで当然生きてくもの
いくら頑張って自分に意味付けしたとしても最後には消える。意味付けしなくても同じように消える。やはり人間というものは皆、特別な意味など持たない存在だいうことが最後の瞬間明瞭になる。 

でもそれでいいんじゃないかって思う。

例えば世の中には別に重要な意味のないものもある。絵とか詩とか音楽とか劇とか花とかこだわりとか気持ちとか。私にとって大切なものばかりだが、これらはなくたって、正常に世界は周り続ける。

でもそれらの意味のないものには、意味がないから故、余白があり、好きなように自分自身を投影できる。好きなように感じて解釈して取り込んだり取り込まなくてもいいし、全部自分が思うままにできるし楽しい。

同じように、大した意味を持たない人間という存在である私たちもまた、一人ひとりが持つこの身に、自分というものを思いのまま投影することができる。私たち人間に予め決められた法則や役割はないのだから。



こうやって力を抜いた考え方をすれば、確固たる意味を見いだせない人生であっても、それを嘆く必要は別にないんだと思える。生まれた意味とかそんな大それたことに頭を悩まさず、自分という人間の余白に充ちた人生を、我流で楽しんでいればそれで正解なのだ

こんな感じで、意味のないものと人間はなんだか存在感が似通っていて、双方が持つ余白こそが私にとって救いであり、だからいつも意味のないものにばかり惹きつけられる。

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