父のキッチン
この数週間はあまりにもめまぐるしかった。
いくつか種まきしていた仕事が一気に決まって喜んでいた矢先、我が家の愛猫2匹が立て続けに体調を悪くし塞ぎ込んでいたところに、趣味で続けていたnoteが初めて『今日の注目記事マガジン』に選ばれて、たくさんの方に読んでいただいた。
いいこともやなことも繰り返すんだなと思っていた。
大好きなボ・ガンボスのどんとが『夢の中』で歌ってた通りだ。
でももう繰り返さんでええよと、平穏でええよと苦笑いしていたところに、1ミリも笑えない、いやなことが起こった。
母が重いものを運ぼうとして圧迫骨折を起こしたらしい。
こんないやなことがあるなら次のいいことは、道端で偶然金塊拾うぐらいじゃ割に合わない。
その連絡を受ける数週間前に、自身の健康診断の結果で骨密度レベルが過去最高だったため、同僚にドヤ顔でつまらない自慢をしていたところ「うちの母はすごく骨が弱くて“骨だけは大事にしなさい”ってのが口癖やったから、aotenさんそれはええ事やで!」と、とてもあたたかい言葉をもらったところだった。
こういうの伏線回収って言うんかな。
慌てて帰省すると、途方もなく年老いた母が布団に横たわって、潤んだ目でこちらを見つめていた。
それはいつか相対せねばならない母の姿を想像させるにたやすいもので、私は心臓がバクバクと音を立て速度を上げているのを感じていた。
『水木しげる先生の描く妖怪みたい、いやまてよ、しりあがり寿先生の描く老人みたいにも見える』
思いつく限りの面白いことに思考をスイッチし、喜劇的な場面に身を置こうとしてみたが全然だめだった。
私は声を震わせながら、
「ちょっと!もう明日にでも召されそうな顔してるやん」
と言って笑ってみた。
すると母はほんの少しだけ笑って、
「笑っても痛いんや」
とうっすら聞き取れる声で言った。
私の至極のギャグで、また骨を折らせてしまうところだった。
半年程前から母は調子を崩していた。
大好きだった庭仕事もままならず、日々の料理ですら父のサポートを得ながら行う事が多くなっていた。
きっかけは昨年の夏、父にネフローゼ症候群の診断が下され、それ以降慣れない食生活のケアなど負担が増えた為だ。
そして父に頼りきって生きてきた母が、父を失ってしまうのではないかという恐怖を味わい、その精神的ダメージがトリガーとなった。
その気持ちはわかる。
そして私は今、目の前の母を失いそうで怖い。
しかし、弱った母をサポートして元気付けたいという気持ちがある一方、元来誰の言葉にも耳を貸さないワガママで閉じた母に対する苛立ちもあった。
前回帰省した時に、今は弱ってるから無理して重いものを持ったりしないでねとあれだけ言ったのに。
迷惑ばかりかけてごめんねと泣く母に、とにかく今は怪我を治す事だけを考えようと言葉をかけるのがせいいっぱいだった。
キッチンへ行くと、父が昼ごはんのお好み焼きと自家栽培したグリンピースの豆ご飯を準備をしていた。
陽当たりが悪いキッチンは相変わらず翳っている。
作業台にあるカップボードの下に目をやるとバズーカ砲みたいなどデカい照明器具が新しく取り付けられていた。
「これ、ええやろ。手をかざすだけでつく」
既に80歳を超えた父が、タッチレス照明を嬉しそうにデモンストレーションしてくれる。
「めっちゃ便利やん」
そう言って私は父の横に立ち、料理を手伝い始めた。
市販のお好み焼き粉は塩分が強すぎるので、小麦粉や山芋、鰹と昆布でとった出汁を混ぜて作るらしい。
ネットで情報を集め、減塩レシピノートを作っているようで、象形文字ぐらい解読不能な手書きの文字で書かれたそれを頼りに、見たことのない最新のキッチンスケールで材料を丁寧に計量していた。
私はふと、キッチンの様々なものがこれまでと違っている事に気がついた。
軽く持ちやすい鍋、使い勝手の良いサイズのフライパン、見やすいキッチンタイマー、魚専用のまな板、中身が見える調味料入れ、サイズが違うザル。
自分で使いやすいように刷新したようだ。
いついかなる時でもある意味冷酷なまでに淡々と、必要な環境を整えていくところが父らしくて、私はとてもいいなと思った。
そこは既に母が使っていたキッチンではなかった。
ダイニングテーブルにホットプレートを用意し、お好み焼きを焼き始める。
大体出来上がったところで母を介助し、ゆっくりと椅子に座らせる。
母は弱々しい右手で箸を掴み、お皿にお好み焼きが乗せられるのを待っている。
「お母さん、マヨネーズとソースかける?」
「うん」
「カツオはかける?」
「aotenちゃん暑い、ホットプレートが前にあって、暑い」
父が作ったお好み焼きを一口も食べぬまま、不機嫌そうに暑いという母。
父が苦笑いしながら、お母さん何が暑いんや、いつも使ってるやろとフォローする。
きっと怪我の痛みで弱気になっているのだろう、不機嫌になっているのだろう、そうなのだろう。
しかし私もこの半年間母を励まし続けて明るい兆しが見えたタイミングで起こった怪我に、何もかもが振り出しに戻ったような悲しみと、疲れと、心の中で“なんでやね〜ん”と突っ込んでも沸き起こる虚しさで、感情が抑えきれなかった。
このまま行くとバズーカ砲、発射しちゃうぞ。
無言でホットプレートの電源をひっこ抜き、わざと大きな音を立てながら作業台の方に移動させて、立ったまま焼き始めた。
テーブルに座っている父と母に背を向けたまま肩をブルブル震わせてこぼれる涙を拭こうともせず、大の大人がお好み焼きを焼いていた。
「aoten、お父さんが焼くから、座って食べたらええ」
「いい、私が焼く」
「aotenちゃん、お母さんわがままゆーてごめんな」
何この切ないシチュエーション。
お好み焼きは、あまりおいしくなかった。
塩分がかなり控えられているし、不器用に切られたキャベツの存在感がありすぎるし、何より粉っぽかった。
しかし、自身も病を抱えながら、母と自分のために毎日3食作らなければならない父が、きちんと調べて工夫しながら作ったお好み焼きの味は、絶対に忘れない。
ついでに、ホットプレートが暑いと言った母の不機嫌さもねちっこく忘れない。
そして今、これから間違いなく介護など大変になるであろう未来を前にして、どうやって笑い飛ばしながら乗り越えていこうかを考えている。
#日記 , #エッセイ , #料理 , #父 , #母 , #キッチン
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