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食い物は400km先

 人間は何も食べずとも、水だけで1ヶ月前後は生きられるらしい。断食のギネス記録は、382日間だそうで、記録保持者の英国人男性は、その間で125kgの減量に成功したらしい。普通の人だったら跡形もなくなってしまうくらいのダイエットである。インドにはそれを遥かに凌ぐ、80年間飲まず食わずだと主張する強者のおじいさんがいると、まことしやかに囁かれている。皆が寝静まった後で、こっそりカレーを食べるおじいさんの姿が浮かぶのはおれだけだろうか。



 アラスカの無人地帯でのキャンプ生活は、滞在3週間を過ぎたあたりから、残りの食糧が目視でわかるくらい足りなかった。
 帰り道の分も合わせたら、残り10日分は必要なはずだが、気づいた時には3日分くらいしか残っていなかった。自分でも驚くほどのうっかりである。正確にはもうちょっと前から足りなそうだな、と薄々勘づいていたのだが、見て見ぬふりをして、その辺の処理は数日後の自分に託していた。

 数日後の自分も今の自分も「自分」なのだが、おれは毎日自分の中身が当番制で変わるというイメージが少なからずあって、特にしんどいことが続く時は、夜寝る前に、「今日担当のおれお疲れ、何とか生き延びたな、あとは明日担当のおれに任せよう。」なんて考えると幾分か生きやすい(気がする)。
 妙にやる気のある日や、朝から何もする気が起きない日があるのは、この当番制により自分の中身が変わっているからなのかもしれない。


 そして今回は、数日前を担当した自分の怠慢により、今日担当の自分にツケが回ってきたのである。基本的に怠け者なので、こういうことは多々ある。



 色々な感覚が麻痺していたのか、そんな状況にも意外と冷静でいられる新たな自分の一面を発見し、なかなかやるなぁと感心しながらも、次の一手を考える必要があった。

 考えられる手段は、二つ。一つは、一刻も早くこの森を脱出し、食糧の調達できる街まで戻ること。最寄りの町は約400㎞先にあるフェアバンクスであるが、長くとも5日あればたどり着けるだろう。それならなんとか食糧は足りそうである。もう一つは一週間生き延びるのための食糧をこの森で調達すること。幸いにもここは植物も動物もいる森である。不毛な砂漠でなくてよかった。


 普通に今すぐ帰りたい、という気持ちを抑えながらも、その時のおれが選んだのは後者であった。それはプライドや冒険心などからではない。今フェアバンクスに帰ったら、日本への帰りのフライトまで一週間弱を町に滞在することになる。単純にそのお金がないので、なんとかこの森で時間をつぶそうと思った次第である。

 何もかも計画不足じゃないかと呆れられるかもしれないが、おれは体力と知恵を絞って、こういう局面をなんとか乗り切るということに楽しみを見出すタイプである。


 さて、それではどうするか。野草を食うか。野生のベリーなど、食べれるものは多いはず。いやだめだ。映画Into the wildの主人公は、図鑑で調べていたにもかかわらず、毒草を食べたせいで他界したのだ。ピンチを楽しみたいタイプではあるが、決して死にたくはない。素人は手を出さないほうがいい分野っぽい。

 採集でないとしたら狩猟であろう。草より肉の方が遥かに飢えをしのげそうでもある。銃がないので大きな動物をハントするのは難しそうだが、こんな事態もあろうかとフェアバンクスでルアーフィッシング入門セットみたいなものを買っていたため、魚を釣ることにした。

 おれは高校生になるまで、目の前に海がある家で生まれ育った。家を出たら道路一本を挟んですぐそこが浜だったので、子供の頃からよく海釣りをしていた。

 小学生のころ友達と3人でイワシを200匹釣ったことがある。揚々と家に持って帰ったが、「そんなにたくさん置く場所ないでしょ!」と母に怒られた。

 中学生の時には、たまたま冷蔵庫にあったサンマを餌にして釣りをしてみたら、30cmくらいの小さいサメが釣れて焦ったこともある。持って帰ったら母に怒られそうなので、すぐに海に帰した。

 高校生の時は、駄菓子のよっちゃんイカで伊勢エビが釣れるという噂を真に受け、よく焚き火をしながら夜釣りしていた。港に停泊中なのか、近くを通った酔っ払いのバヌアツ人に絡まれて缶ビールをもらった覚えがある。その時何が釣れたかは覚えていない。


 とまぁ、海釣りの経験はそれなりにあったのだが、川釣りやルアー釣りをするのは初めてであった。ルアーフィッシングはその名の通りルアー(擬似餌)で魚を釣るスタイルで、ルアーに動きをつけて魚を誘き寄せるために、生き餌を使うより技術が要る。なにはともあれやってみよう。

 朝飯を食べてから、ベースキャンプの近くを流れる小川へ行き、早速やってみたのだが、案の定釣れない。魚影すら見えない。しかし釣りなんてそんなものだ。すぐには釣れない。魚釣りとはイコール忍耐である。焦りは魚にまで伝わるものだ。気長に待つべし。




釣れない。








釣れないぞ。





魚、いない??




 そしてそのまま1日が終わった

 1日と言わず、次の日も何も釣れないまま日が暮れた。その次の日も。その次もその次も。
目の前の川はゆったりと流れていたが、時の流れは急流であったようだ。ボーっと釣りをして本当に5日も過ぎたのか、あまり記憶にない。意識が朦朧としていたのかもしれない。

 ただ、釣りに集中していたおかげで空腹は紛れたのか、普段の2日分の食糧でこの5日をしのいだ。




 さ、作戦成功!!

 空腹を忘れるほど釣りに没頭し、ただひたすら時が流れるのを待つという作戦である。そう自分に言い聞かせて、なんとかこの空白の5日間を意義のあるものとして昇華させた。



 食糧が増えることは無かったが、機は熟した。1ヶ月弱過ごしたこの森をとうとう発つ時が来たようだ。食糧は残り1日分。腹は既に減っている。街は400km先だが、この1日分でなんとか間に合わせよう。

 

 1ヶ月ぶりに漕ぐ自転車は、食糧が無くなった分、そして自分自身が痩せた分、随分と軽くなったはずであったが、空腹で力の出ない分、ペダルはずっと重く感じた。

 しんどい日々になりそうだ、と今週を担当する当番のおれを不憫に思いながら走り出した。






続く

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