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傷 (短編小説)


あなたは「その人」であり「私」である。




その人は泣いていた。
私にはとても耳障りな声で。醜い顔で。
流れる涙は濁って見えた。

私は自分の体を、足の先から順に視点をあげて眺める。そして訊いた。
「あなたには何が見えているの?」

「ぼろぼろで、痛々しくて、見るに耐えない……」
その人の目から、泥水のような涙が溢れた。
どうやら、私たちは見ている世界が違うようなのだ。同じ場所に立っているようで、違う空間にいる。
「あなたの言っていることがわからない。私はこんなに頑丈な鎧を着ているのだから。
ぼろぼろ?痛々しい?一体何が見えているの?」
その人は手で顔を覆いしばらく泣いていたが、やがて呼吸を整えると、悲痛な面持ちでもう一度しっかりと私を見た。

「ぼろぼろだよ。全身が傷だらけ。噛みつかれた歯型が残ってる。胸の傷は見るからに深い。足だって、片方は立っているのが不思議なくらい折れ曲がっているじゃない。せめてその体に刺さった、いくつもの棘を私に抜かせてほしい……」
そう言って、泣きながら少しずつ近づいて来るその人から、私は後退りで距離を保つ。

「こわいよ、あんた。あんたの想像で見たもので私を判断しないでよ。
私はしっかりここに立っているし、硬い鎧に守られてる。確かにこの鎧は硬すぎて身動きが取れない。きつくて息もし辛い。だけど、大丈夫。私はこれで自分を守れてる。
だから、お願い。知ったようなことを言わないで」

私とその人は目を合わせた。
いつまでも流れ続けるその人の濁った涙は、私のこころをざわつかせる。

「泣くな」私は言う。
「泣くな」

その人は優しい声で言う。
『にげようね、やすもうね……』

見たくない。聞きたくない。要らない。
私の体は突如動き出した。
その人に飛びかかり、全ての力を使って殴り続けた。

だまりなさい
だまれ

私は、いつの間にか息絶えたその人を麻の袋に詰めて、ロープで縛った。
ただの『物』になったその人は、ようやく口をつぐんだ。

次の日も、その次の日も、私は麻の袋に人を詰めて縛った。
いくつかの『物』が並んだとき、私の周りは急に静かになった。もう、私を見て涙を流す人がいなくなったのだろう。
私はほっとして床に崩れた。
そのとき、初めて自分の体がぼろぼろで傷だらけだったことに気がついた。麻の中に眠る人たちが見たものと同じものを目にして狼狽える。
胸の傷口から溢れる液体は止まらない。噛みつかれた跡が痛い。棘が食い込んで眠れない。
跡形もなく消え去りたいのに、自分のことはあの人たちのように簡単には消せなかった。
そんなとき、麻袋の中から声がした。
あのときと同じように、私に語りかける、優しい声。

わたしたちのうえでねむりなさい
そうでないと、ほんとうにしんでしまうよ

しんだものの上で眠るなんて。
だけどもう、そこにしか眠る場所は無かった。
不安定な大地が崩れ始める。必死で麻の袋にしがみついた。




[完]


#小説

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