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枯山水、自分の視点は文脈で固定化されている【研究者日記】

出張で京都に行っている隙間に久しぶりに枯山水を見に行ってきました。

室町時代の文化を見ていると、とてもわびさびを感じます。緑から色が変わり始める頃の京都を見始めると、季節の移ろいと変化は常に起こっていることがよくわかります。

今回は龍安寺さんに初めて来てみました。おそらく世界で一番有名な枯山水があるお寺ですね。わたしは東福寺近くにある光明院の枯山水が好きで、そこの枯山水を見て「人生には余白が大事だ」ということに気づいてから、枯山水をしょっちゅう見に行くようになりました。

なんか心が落ち着きます。紅葉のシーズンの京都はめっちゃいい感じになってるんでしょうけど、私は意外とこの緑でかつあまり暑くない秋の始まりの京都が結構好きですね。

足るを知るです。

この石庭はどういう意図で作られてるかとかはわかんないみたいです。見る人に解釈や気づきの方角が委ねられます。

こういったアートを見ていると、私はいかに心理学っぽい視点で世界を捉えてるのかなっていうのかわかりますよね。

「君たちはどう生きるか」の映画見た時も思いましたけど、解釈が心理学な考えをしているんだなっていうのがよくわかります。

今回の石庭は、中の円で表現されているのがまとまりや個々の事象を表してるとして、それ以外の部分の相当な余白が大きいところ、やっぱり人は物事を見るときにどうしても見えてる部分の領域内しか見えてなくて、周りに色々な物事があったりなかったりするっていうところは、相当なバイアスがかかって見えている(いない)。

石の見え隠れを見ていると、その見えてない部分っていうのがあって、それが人によってどれぐらい見えてるかどうかっていうのは人それぞれ違うところなんだけれども、見えてる部分がどれぐらい見えてるかっていうのは、他との比較でしかわからない。結局のところは誰がどう物事を見てるかっていうのは自分しかわからないというようなことなのかなということを考えながら見ていた。

禅の思想、人それぞれ何か自分の思い描いていることとかそういうのを気付けるような作品設定なんだろうなって思いました。

アート、何かを考え(てい)る時に、こういった違う角度での視点をみると、さらなる気づきがあるよねっておもいました。とてもいい龍安寺さんでした。

それでは、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました〜

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