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18歳、6月の夏。
ッパーーーン!!
乾いた音が夏の夕空に響く。僕は審判のコールに合わせて冷たい金属のコントローラを操作する。ストライク、と。センターの後ろの移動式のスコアボードは僕の操作通りに黄色の丸が一つ増えた。
チッとバットが掠りガシャーンとネットが鈍く揺れる。ファール。これでツーストライク。僕はボタンを押す。
ボール、青。ファール、押さない。ファール、押さない。山井が投じた6球目はドロンと落ちるカーブでバッターは手が出ず、審判は片手を大きく振り上げ三振をコールした。
僕は赤いボタンを押す。アウトカウントが1つ増えた。
3年の6月。Aチームの練習試合でここにいる時点でもう結果は決まったようなものなのだ。それは隣であくびを噛み殺している高尾も同じだ。僕は高尾の足をノールックで踏んづけた。こいつが寝たら僕も怒られる。
カウントミスを防ぐために原則2人でやるこの係は監督の視界に入ることやミスしたら大問題になるので誰もやりたがらない。僕だってやりたくない。じゃんけんで負けたのだ。OBでコーチをやっている須田は「Aの試合を間近で見て勉強できるのにやりたがらない理由がわからない」と激怒したことがあったが、それには説得力がまるでない。なぜなら須田はこの係をほとんどやったことがないからだ。彼は僕が中学生の頃から有名人で1年生の春から試合に出ていたからこういう補助の知識がまるでない。
そんなやつに僕らの気持ちがわかるわけないだろう。うちの高校はコーチも監督も大人はみんな現役時代エリートだった人らだ。だからきっと知らない。この係が死ぬほど眠いことに。
幸い、今投げている山井は県内では有名で150㌔を投げるもんだからミットの着弾音が程よい眠気覚ましになっている。だからカーブはやめてほしい。
練習着の白いメッシュのユニフォーム。うちの高校は左肩にマジックテープでワッペンを貼る。1-3桁の数字だ。これは毎月変わる。背番号のようなものだ。1-9は各ポジションのレギュラー。2は捕手、5は三塁手、7は左翼手のレギュラーになっているやつがつける。それ以降は控え。15なら二番手の三塁手になる。25までがAチームで公式戦はそこからさらに20人まで絞られる。Aチームでも安泰ではないのだ。B以降は番号が若いほど実力が上ということになる。ポジションによるのだが、どちらかといえば総合力が見られている。
26-50がB、51-75がC、76-100がD、101以降はEではなく「その他」という扱いになる。
練習試合や紅白戦、実戦形式の練習での結果が考慮され毎月25日に部員140人分のマグネットがホワイトボードに貼られ、変動があればワッペンを部員同士で交換する。ちなみに練習試合が組まれるのはCチームまでで、月に1度だけD戦も組まれる。「その他」はDに欠員が出ない限りチャンスはない。部員が多い上にグラウンドも野球部専用ではないのでCチーム以下のメンバーがバッティング練習ができるのはAとBが遠征に出かけている時だけであるし、普段はずっと声を出すか他の部活のエリアにボールが飛ばないようにカバーをする「人間フェンス」をして放課後を過ごす。
1学年40人以上いるものだから、部活以外でも派閥があるし、基本的にレギュラーはレギュラーとつるむようになる。たまにレギュラーグループに混ざっているやつもいるがそんなのは例外中の例外であり、僕はサッカー部の友達の方が多い。
僕はBだ。BとCを行ったり来たりしている。3回だけAに上がったがいずれもチャンスをものにできず、こうしてせっせとスコアボードにランプを灯しているのである。
もう6月だ。
陽が随分と伸びた。気温も湿度もだいぶ上がった。じっとしているだけで、丸刈りの頭からは汗が溢れ、ほおをつたる。抜いても抜いてもメキメキと勢力を拡大する雑草を僕はもっと見習うべきかもしれない。
今日の練習試合はうちのグラウンドでやっている。夏の大会前は監督同士仲がいい高校とほぼ毎日練習試合をする。
夏の大会は学校にとっても一大イベントで、吹奏楽部やバトン部も野球部の応援歌の練習に入る。野球が強い学校あるあるだと思う。この時期はグラウンドのギャラリーが増える。山井が三振を獲ると、きゃーと女子生徒がハイタッチしていた。同じクラスの宇多川がヒットを打つともっと凄かった。宇多川は顔がよく、頭もいいし、話も上手い。僕は神様に舌打ちをしてスコアボードに数字を入力する。
チカチカと、点滅を繰り返していたナイターが徐々に明るみを帯び、風が少し出てきた。すんと乾いた匂いが鼻を抜けた。ベンチ裏の雑草がサーサーと風に揺られ、夕方の終わりを告げている。
気づけば試合は終わり、僕と高尾はコンセントを丁寧に巻き、箱にしまった。高校野球で得た技術は野球よりも水たまりを作らない水の撒き方だとか、ブレない白線の引き方とか、監督の視界に入らない立ち回りだとか、「帰れ」と言われた時の対処方法だとか、そんなことばっかりである。
コンセント付きの機械をスッと箱にしまう技術なら僕と高尾は黄金バッテリーである。
「アップもしていないのにクールダウンをするのはギャグだよな」なんて補助係ギャグをボソボソやりながら140人の一斉ランニングに足を合わせる。
キャプテンの岡が号令をかけながらランニングとストレッチを行い、監督に部員全員で集まり、何言っているかわからない距離でうんうんと頷く。大丈夫。どうせ監督も20人にしか話していないから。
最後に部員のみでミーティングを行う。Aチームの五十嵐が同じ学年のBチームの神田が弛んでいると公開説教し最後に「もっと意識上げろよ!夏は140人全員で勝つぞ!」的なことを言った。神田は最近、任意参加の朝練に来なかったり、練習の補助でミスを頻発している。ピリッと空気が急降下し、脈が速くなった。
いやいや、僕らはみんな自分の意思でここにいるわけで今の立場を誰かのせいになんてしないし、100%自分の問題なのはみんな自覚している。それに僕は自分の役割をしっかりやっている。そこに感情がないだけだ。そして神田の気持ちもわかる。僕も気を抜けば神田と同じだ。
そもそも140人全員が同じ方向を向くこと自体無理があると思っている。
Aの連中だって、1-9のやつらは甲子園に行きたいと強く思うだろうし、10-20のやつらはレギュラーを獲りたい思いが強いし、21-25はなんとしても大会メンバーに入りたいと思っているだろう。
BはAに上がりたいし、あるいはもう諦めて受験モードに半分入っているメンバーもいるかもしれない。CのメンバーはBに行きたいだろうし、チームが甲子園に出ることよりも初戦敗退でもいいから自分がグラウンドに立ちたいと思っている者だっていてもおかしくない。
「全員野球」ほど見た目と中身のギャップが大きなものはないな、そう思った。みんな熱O甲子園を見過ぎなのだ。野球はグラウンドに立っている者だけのものであって、スタンドでメガホンを振っても勝利には起因しない。その証拠に、自分の代で甲子園に出ても履歴書に「甲子園出場」と書けるのは背番号をつけていた者のみだ。
神田が「すみませんでした。もっと意識高くしていきます」と帽子をとって頭を下げた。その謝罪は決して軽いものではなかった。だらしないやつは他にもっといるしそいつらの謝罪は同じ文言でもどことなく軽い。神田は、彼は真面目なのだ。それは周知の事実だからこそ五十嵐も怒ったのだろう。やりすぎだけども。
帰りの電車はいつも松尾と同じだ。松尾はAチームで、ずっと試合に出ているけれど、あんまり威張らないというか、人がいい。後輩にも好かれている。僕は地元が同じなので3年間ほぼ毎日松尾と登下校をしていたが悪口を一度も聞いたことがない。
校門を出ると松尾が待っていた。野球部のリュックには「MATSUO」という刺繍と彼女が作ったお守りと手製のマスコットキーホルダーが存在感を放っている。くるぶしにはミサンガを巻いていて、彼女がいる奴はみんなこれをやっている。
駅に向かう。記憶にも残らぬ会話をダラダラとしながら。
「今日も打ったじゃん」
「まあな。あおは今日起きてた?」くすくすと笑う。
「ギリギリセーフ」と大袈裟にニヤッとする。
あれまじで眠いんだよー、とげえっという顔をした。
背中がじんわりと暑い。熱がこもる。腕まくりをしても暑さは変わらずもう夜なのに汗がつたる。
帰りの電車はいつも帰宅ラッシュだった。
満員電車で「今日海斗キレてたよなあ」と松尾が思い出したように言った。五十嵐のことだ。「そうだね」と僕は言った。
「先輩もそうだったけど、この時期は敏感になるよね」と言った。
「神田も疲れてたんだな、きっと」と松尾が言った。
「お前は優しいな」と本心で言った。
「神田にもいろいろあるんだろ。俺はずっとAだけど……」途中で松尾は言葉を止めて「ごめん、やっぱなし」とバツが悪そうに目を逸らした。
ガタン、ガガ、ガタガタン、ガタン、ガタン、ゴットン。
ガタン、ガタン、ゴン、ゴット、ガタン。
ガー、ガタン、ガタン、ガッタン。
ガタン。ガタン。ゴトン。
ガタン。
揺れる電車、見慣れた景色がエンドロールのようにスルスルと流れていく。車窓に映る自分はどんな顔をしているのだろう。街灯が光の川となって地元に僕らを運ぶ。
「あおは?」
「内緒」
*
次の日は練習だった。
僕はノックの補助をして、打撃投手をやり、1年生に会議室で攻撃のサインを教えた。全体練習が終わり最後のランニングが始まる前にナイターが点灯し、夜が始まった。風が草を揺らし、一瞬だけ湿気が和らいだ。倉庫横の水道でベースを洗っていると神田が手伝いにきた。
僕は近くに監督やAの連中がいないのを確認してからこそっと「昨日はやっっちゃったねえ」と笑った。神田は「うん」とだけ言った。とても暗くてジメジメした顔をしていた。
僕はまだ洗っていないベースを神田にまかせ、洗った方を雑巾で乾拭きした。
しばらくの沈黙の後に神田が口を開いた。
「俺さ」
ん、と僕は神田を見ずに返事した。
「最近ずっと、なんていうかぐるぐるしてて」
「と、言いますと?」
神田の方を見るとやはり暗い表情で、しかもちょっとつっついたら泣き出してしまいそうだった。
「……俺さ、こ」
「こ?」
「ううん、夏大、再来週じゃん?」
「そうね、ついにラストサマーだね」
「うん、でもBじゃん俺ら」
「まあ」
「もう90%以上はさ……」
「……そうだろうね」
「あお」
「なに」
「俺、夏が怖い。そんな自分も嫌いで、最近朝起きれないし、思考がうまくできなくてミスばっかりしちゃってAに迷惑かけちゃうし、それに!」
か細い声、顔はもう泣きそうだった。
「ちゃんと応援できるかなって」神田が続けた。
「神田」
「・・・」
声を出したら泣いてしまいそうな彼に僕は蛇口を向けて水をかけた。
「あお」
「なに」
「あおは?」
「同じだよ、多分」
夏の手前、伸びる夏草、上がる気温。自分で選んだ道だからと言い聞かせ、それでもなお、軸がブレる。きっとたくさん後悔するのだろう。卒業してスパッと終わるものでもないのだろう。それでも、いや、じゃあ、どうしたらよかったのだろう。僕は、僕らはどうすればよくて、これから抱くであろうこの感情は許されないものなのだろうか。
そんな葛藤の中で僕らは最後の夏を迎えようとしていた。
生活費になります。食費。育ち盛りゆえ。。