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統一教会の離脱に伴う〝父〟の不在。美術という〝信仰〟。

旧統一教会では教祖のことを、「教祖様」とか「文様」、「鮮明様」とかは絶対に呼ばない。
「真のお父様」「アボニム」「アボジ」。こう呼ぶ。
幼い私が食卓で「お父様がさ〜」と言い、信者でない実父はそれを聞いてキレる、という修羅場が度々あった。

「真のお父様」ーー。「母親」の語る「真の父母」。絶対的な存在。

実父は信仰に強く批判的だったため非常に心の揺らぎが大きかった。

私が高校に上がる頃、父親は家を出ていった。
母親は祖母には「お父さんは海外に行ってる」と嘘をついてたのが、今でも印象に残っている。

母親は、私たち子供には潔癖を求め、性に異常に厳しい割には自分はエッチな感じの少女漫画ばかり読んでいた。
私も高校生ぐらいまでは性嫌悪で、初体験のときに「堕落するんじゃないか」と真剣に考えたものだ。
「結婚する前に性行為しました。私は堕落しますか?」とYahoo知恵袋に質問までした。

フロイト的には、過度の性嫌悪は過度の変態を育てるらしい。
だから、私はセクシャルで変態的なアート表現をし続けているのであろう。

生まれた頃から母は統一教会に入信していたから、自分にとっても人格形成の土台になっていた部分はあると思う。
そこが無くなって、ぽっかり穴が空いているように思う時もあったかもしれない。
思春期になり、恋愛やセックスを経験することで、「統一教会」「真のお父様」とは離別したのだから。

「信仰」「宗教」とは、「親」同然の効果を持っている。

自分で判断するよりも前に絶対的に正しいと感じられるもの。
判断より前にくるもの。
母の言う、絶対的な「真のお父様」。

既存の宗教に限らず、誰にでも個人的な信仰があるはず。父となる、法の根拠。
文鮮明、「真のお父様」が完璧に断ち切られてるなら、何か別の精神の支柱がある。

その私にとっての「信仰」が「美術」「アート」「絵画」なのではないか。

美術があるからこそ、私は発狂せず、精神の均衡を保てるのである。
幼い頃から「私には絵しかない!」と思って一心不乱に続けてきた。

他にもそこそこ得意なことはあるが、他が霞むぐらい、絵だけが抜群に強いと感じる。

子供の教育については、やはり徹底的に自己肯定感を植え付ける親が必要なはずだ。
親がケアしてくれないのに自己肯定感を自ら育てた人間がどれほどいるのだろうか。
私の場合は褒められて伸びたわけではないように感じる。

内在的に美術をやりたい気持ちが最初からあって、ほっといてもふつふつと湧いて出てくるのだ。
親や先生にやれと言われたわけではなく、自らの力で掴み取った自我。
それが、私にとっての、「絵画」「美術」「アート」。


人は常に自分で前提を作っていて、自分が提供する前提に即して人が集まるものらしい。
家庭とはまさに前提を整える場所である。

私は、ネットワークビジネス系、宗教・スピリチュアル系、DV系の異性とお付き合いすることが多い。
生まれ育った家庭環境が少なからず関わっていそうだ。
そういう匂いをもった人に潜在意識で惹かれてしまうのであろう。

DVを受けやすい人の特徴として、「自分に自信がない」「自己肯定感が低い」ことが挙げられる。
そういう人の心理には「こんな自分を受け入れてくれる」「次に自分を受け入れてくれる人が現れるか分からず、今身近な人を手放せない」というのがある。

大抵、自信は連動するものである。
「自分に自信があるから何でもできる。」といった、自分への信頼。
根拠のない自信は全ての物事に適用できます。これが本当の自信だ。
私の場合、自分自身への信頼は脆い気がするのだ。
しかし、「美術」「絵画」という一点において圧倒的自信があり、そこだけは自分への信頼も厚い。
極端な一点突破型なのである。


政治・社会問題を切るのはジャーナリストにもできる。
私はアーティストとして、もっとドメスティックな部分から切り付けていけたらなと思う。

今の時代に求められるのは、作家の背景、バックグラウンドを重視したAIにはできないアートなのではないだろうか。

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