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プロット沼 / ニラ栽培農家(S家のこと3)20230319sun

2116文字・60min

家の前を曲がった路地に三日前に咲いた、熟れた女の白い乳房をおもわせるハクモクレンの花びらは今朝は褐色に傷んで、地面に無残に散っていた。ぼくはそんな褐色に傷ついた女の肌のような花びらを、手を伸ばして毟って、口に運んだ。甘ったるいのが口にひろがった。

*****

神話のような血筋ブンガクを書く中上健次は、真夏の紀州の路地に真っ赤にひらく芙蓉から物語を書きはじめる。死へとむかう中本の血の一統が、一瞬、燃えあがるように沸きたつ、中上健次一流のブンガクだ。男は田舎にかえってくると、中上健次の路地文学が肌身に染みるのだった。

男も、日々、小説を書いていた。だがそれはまったくの稚拙でブンガクの真似ごとのようだった。男は不眠症に悩まされていた。けれども男は、その眠れぬ夜の時間をさいて、夜な夜な執筆をこなしていた。
男は中上健次のようなブンガクの巨人ではなかったが。それでもそんな男でも、小説を書く段となると、頭にある情景が浮かんだ。それは春先の、熟れた少女のようなハクモクレンだ。熟れた少女。矛盾をはらむ言葉だったが男なりに描写にすれば、その物語の冒頭の路地には本当に熟れた少女が腐っていくような儚いハクモクレンの木が生えているのだ。なぜそんなものが浮かぶのか。書いている男にはさっぱりわからなかった。

ハクモクレンの奥ではピンク色のコブシが満開に咲いていた。男の家の向こうの牛舎の脇では、桜が咲いていた。そんな春先の日だった。

齢か病のせいか男の体調は日に日に衰える。頭はぼんやりとする。ここ三日は目覚めている間ずっと男の頭は、まるで制御棒がとり除かれた原子炉のように高温状態だった。

先週の初め、男は食事に味がしないのに気づいた。
最初は、今月初めに三年ぶりに九州から北関東の実家の戻ってきて、老いた母が作る手料理を、飢えた胃袋に流しこむように勢いよく食べるそのせいだろうと思った。男はここずっと母親がテーブルに置く里芋の煮っ転がしやオムライスやハンバーグを飲み込むように口に入れたのだった。
だが、どうやらそれは違うようだった。

昨日、男はゆっくりと食事をした。目をつぶって自分の口腔内を思い描きながら時間をかけて咀嚼をした。シャケのバター焼きとキノコの炒めものだった。男の母親の作る食事は父が糖尿病であるのを気遣って味付けはうすかった。そのせいなのかもしれないと男は箸で切っただけの咀嚼をしない大きなシャケの塊を、舌に乗せたまま食道へ推しやる。男はそのままその塊を飲みこんでいた。
それはちがうのだ。

回想から引きもどされた男の頭に、電撃が走った。男はこの症状を自分の死の前兆と直感した。すると今までぼんやりと過ごしてきた生活のひとつひとつが細い針金のようなものに貫かれた。映画を見て感動しないのも、食事に味がしないのも、セクシー映像に勃たないのも、裏の家のトシオ孫娘のユリカに欲情しない。それらはみな死を感じないせいだと男は思った。そんな男にも恐怖はあった。老いだ。だがそれは堤防を乗り越えてゆっくりと迫りくる大津波の再現シーンをどこか別の土地のテレビで見ているようなものだった。今回はちがった。眼前に津波が押し寄せてきて足が波にさらわれているのを感じたのだ。あの熟れた少女のハクモクレンの花びらの味のように。
男は二階に上がって、洗面台の鏡を見た。顔の隅々までまじまじと見つめる。最後に、自分の一対のまなこを見て、男は大きなため息を吐いた。裏のトシオとおなじ萎んだ眼球がそこにあった。これは死相だ。男が最も恐ろしいとぼんやりと思ったのは、この状況に置かれた自分が、死の恐怖をほとんど感じていなかったことだ。男は焦る。だがその焦りは、リクガメが野原を這うような鈍重な焦燥感だった。
「昨日、喜ちゃん飯店に行ったんよ」
どこからか、フミが笑う声が聞こえる。
「うめえんだけどな。待たされた。いつも待つんだよなあ。昨日は四十分待たされた」
「そうだね。あそこはランチは混むだろうね。従業員も忙しくて大変だろうな」
「にいちゃん、あそこで仕事やればいいんに」

男は部屋に飛びこんで扉を閉めた。押し入れで丸まって寝ていたネコが首をもたげる。男はパソコンを開いて昨日のブログ記事を読みかえした。
その記事のサムネだった。それは衝撃の写真であるはずのものだった。
その写真は、男が散歩に出た矢先に道端で頭が潰れた猫の死骸の目撃した写真だった。そんな衝撃的なことを男は見て見ぬふりをした。男はボウっとして記事にさえしなかったのだ。
男は、昨日のトシオの窪んだ死んだまなこをぼんやりと思い出しながら携帯をとりだした。番号を打ちこんでいるときにはもうトシオの死んだ目は思い出せなかった。
男はネットで《喜ちゃん飯店》をググって、電話をかける。
「はい、喜ちゃん飯店です」
女の声がでた。元気のいい声だ。
「もしもし、いま従業員募集はしてないですかね」
男は言った。
「えー。してるよ。嬉しいな。いまこれから来てみる?」
「え!? いまからですか」
「もうランチは終わるから」
男は部屋の時計を見あげた。二時だった。
ネコが男の膝に飛び乗ったが男は払って階下に降りた。
ロードバイクの空気を確認してそれに跨った。

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