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小説の取材(ロケハン)の意味がやっとわかった。遠藤周作編!


出来上がった小説の最終チェックをしていて、あ、この場面、この道の駅は取材でいったなぁー。思っていたらふと、ばちん! と閃いた。というか遠藤周作の取材のことを書いた、どこかの編集のことばを思い出した。ほぼ忘れたがかいつまんで書くとこうだ。

私は遠藤周作先生と一緒に取材旅行に行ったんですが、先生はどこをみるとも無しにただふらふらされておられる。写真を撮るでもなし。出来上がった作品を読みますと行った風景とまるで違う。取材旅行に行った甲斐があったのか……。

こんな感じだった。

でも、僕は取材とはその場所が目的ではない。と思う。取材する者の目に映った風景は彼の脳みその記憶にストックされる。いつでも脳のどこかで繋がっている。ある日とつぜんある場面が表出される。架空(虚構)のシーンの一部として。柱だけとか。壁にかかった絵とか。女(ウェイトレス)の影とか。その(疑念、想像が生まれるタネ)を拾っただけで書き手は儲けものなのだ。

僕は取材で白馬のレストランを見てクルマで素通りした。でもどうしてもレストランの中身が気になった。数ヶ月後、そのシーンを書くときにネットで調べれたらそのレストランは「ガスト」だった。もっと調べれば見取り図もわかる。だが重要なのは《あの取材した冬に見た某レストランの中身はいったいなにがあったのだろう? 》この想像が僕が書いたシーンを大きく膨らませることになった。これを記憶の断片。フラグメントという。

「取材はかならず行くべきだ」
とぼくは教わった。
「だが、取材で使えるのは百に一つだ」
その通りだった。

浜辺を取材して、やっぱり日本海は寒い。流木を見て山手や浜辺の風景の写メを撮った。家に帰ってくればそれだけだった。しかし、あのときあの浜で踏んだひとつの玉砂利の足の感触が物語のイメージを大きく膨らませることとなった。

まとめ

作家の記憶のフラグメントと現地のイメージを繋ぎ合わせる。それが小説のロケハンだ。


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