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最終バス(掌編10枚)

 五時にアルバイトを終わらせ、左手の坂を登っていくと右手に瀬戸内海がパッと広がる、そのだらだら坂を登った桜ヶ丘団地の入り口にある、小さな図書館でわたしは、いつも閉館時間までドストエフスキーを読んで過ごす。

 夜八時になると市営バスが「桜ヶ丘図書館前」で停車する。わたしはその市営バスに乗って幼稚園までミキを迎えに行く。

 その日も、真っ暗になった園内に入ると、ミキのいる年長クラスの部屋のあかりが、ぽつ、と、ついていた。

 ミキはいつも最後だった。

「いつもお世話になっています。ミキの姉です… はあ、えっ、あはい、分かりました。母にはちゃんと伝えておきますのでいつも遅くまで申しわけありません、しつれいします」

 すっかり帰り支度を済ませてある保母らは、ミキのお迎えがいつもわたしらの最後の仕事だと見せつけるように消灯をし、そそくさと帰っていく。

 辺りはすっぽりと闇に包まれた。

 そんな園庭の暗闇のなか、奇妙な円陣を描いてわたしを待っていたミキは、全速力で駆けてきて、わたしに抱きついた。

 それからわたしとミキは、いつものように手をつないでバス停まで歩いた。

「カンナ聞いて今日ね、マーくんがね、ミキのことすきだって、だからね、結婚の約束をしたの」

「そう、よかったね、でもねミキ、今日、トモコちゃんとケンカしたでしょ。駄目だよそんなことしちゃ、お母さんに言わないから、今度からケンカはしないでね」

 わたしはミキの手を引き、バス停までたどり着いた。

「だってぇ、トモちゃんがさきにぶってきたんだもん! 」

 縁が潮風でさびた[ 高浜駅前 ]と書かれたバス停は闇に塗られ、電柱の蛍光灯に嬲られるように飛ぶ羽虫も蛍光灯が消えていて、その日はいなかった。

 黒を黒で塗りこめたようなくろい闇のなかに、わたしとミキはふたりでポツンと立っていた。

 わたしのスニーカーの先に、雨粒がひとつぶ落ちた。

 傘は持ち合わせていなかった。このまま濡れるしかない。

 動物本能、いや幽玄の力を秘めた子ども霊力で、これからわたしの口が発せられたそれを感じ取ったのか、ミキはわたしの手を強くにぎったまま、黙ってズックで地面の湿った泥をこねていた。

 わたしの手の溝を伝ってミキの小さな指に、春の温かな雨の筋が、一条、流れた。

「カンナは、ミキの本当のお姉ちゃんじゃない」

 突然に、わたしは、それを呟いていた。

「じゃあ、カンナはだれ? 」

 とミキはわたしにたずねた。

「カンナのお母さんとミキのお母さんはちがうひと」

 とわたしはいった。

「カンナのお母さんとミキのお母さんはちがうひと? 」

 とミキは繰り返した。

「そうカンナのお母さんとミキのお母さんはちがうひと」

 とまたわたしは繰り返した。

「カンナのお母さんとミキのお母さんはちがうひと」

 とまたミキは乾いた声で繰り返した。

 二人の間に冷たい沈黙が横たわった。

「カンナはミキの家族なの? 」

「もちろん家族だよ」

「… じゃあミキはだれの子なの? 」

「お母さんとお父さんの子だよ。けどねカンナはミキのお母さんのお腹からはうまれなかった」

 また、一しきり、沈黙があった。

「… へえ、ミキ分からなくなっちゃったなあ」

 その沈黙の具合とわたしをかわす、こども独特のしゃべりをみる限りミキはすっかりなにもかもわかっていたのかもしれない。

「お姉ちゃんは、もう少ししたら東京へ行くの。だからミキとはバイバイ」

「なにしにいくの?」

「勉強をしに東京の学校にいく」

 嘘だった。

 小六のわたしには、ほかの嘘が思い浮かばなかった。わたしなりの精一杯の優しさと自分を慰める偽善だった。

 きっとわたしはミキを傷つけぬように、またわたしを慰めるように、嘘を重かさねるだろう。優しさと偽善で包まれた嘘は、まるで和紙に染みこんでゆく墨汁のように、わたしとミキを修復不能にしてしまう。わたしはおそろしかった。

「へえ、ミキもね来年一年生になるんだよ勉強してたくさん友達つくるんだあっほら見てみてバスきたよカンナ今日さむいねあめ冷たいねバスのなか温かいかなあはやくのろうね」

 ミキはまくし立てていた。明らかになにかを堪えているようだった。

 バスが到着した。『朝日ヶ丘団地車庫行』となっていているワンマンバスの表示板は赤く光っていた。最終バスである。

 わたしとミキが最終バスにのり込こむと、なかはがらんとしていた。最後尾の席に、オーバーコートを羽織った初老の男性がうつむいてすわっていた。雨のなか、最終バスは走りだした。

 わたしとミキはならんですわった。

「ぬれちゃったねー。ミキ寒くない? 」

 とわたしはいった。

 寒いのか、あるいは別の感情なのか、ミキはまだわたしの手を、固く握っていた。

「ミキ大丈夫」

 固くわたしの手を握ったままミキは、澄んだ水晶玉のような一対の眼球をまっすぐ、闇に溶ける窓ガラスに向けていた。わたしと目を合わせようとしなかった。

 ここで、わたしは、感極まってしまった。

 いま思えば、わたしはあのとき、すっかり間違ったことをいってしまった。のかもしれなかった。

「カンナが東京いったら、ミキはカンナのこと忘れて」

「なんで! 」

 ミキは、闇に同化したくろい窓を見つめたまま信じられない力で爪を立てわたしの手首を噛んだ。まるで野犬に咬まれたような痛さだった。

「カンナは東京にいったらひとりで生きていくの、だからもうミキともミキの母さんとももう会わない」

 とわたしはいった。

「カンナもう、おうちにかえってこない? 」

 とミキはいった。

「そう、もうおうちに帰ってこない」とわたしはいった。

「なんで?! 」

 ミキは急にわたしを見つめた。

「会いたくないの」

 正直にいった。せめてミキにだけは正直を伝えたかった。

「ミキのこと嫌い? 」

 ミキは、憎むような目でわたしを睨んだ。

「好きよ、とっても。でもね、ミキの母さんが、もうミキと会うなって」

 とわたしはいった。

「ミキはカンナのこと、大好きなのになぁ」

 とミキはいった。

「ミキがもすこしおねえさんになったら分かると思う」

 とわたしはいった。

「へえ、」

 ミキは、いつものミキにもどっていた。

 最終バスは、夜の海岸線を通っているらしく潮の音が耳に入ってきた。

「カンナなんで泣いているの? 」

「ううん。さびしいのかな。悲しいっていったほうがいいかな。違いわかる? 」

「さみしいってかなしいことじゃないの?」

「むずかしいね」

「ミキわからない」

「…」

「東京いかなきゃいいのに」

「…」

「お姉ちゃん」

「…」

「なかないでえ」

「…」

「ミキ、カンナの元気がでるおまじないしてあげる」

 ミキは、固くにぎりしめていたその手をはなし、まずバスの濡れた木の床にズックで円を描いた。

 それからわたしの顔の前で、両の手で、右手で大きな円を同時に左手で小さな円を描いた。今度はそれを逆手にしてやった。何度もそんな仕草をくり返した。

 バスが停車した。

 初老の男性は降りていった。残るは運転手とわたしとミキだけになった。

 ミキは、わたしの前の円陣を敷き、大きな円と小さな円を描きつづけた。

 最終バスは春の雨夜のなかにゆっくりと溶けていった。



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