学問をするとノリが悪くなる
先日、塾で一緒に働いている大学生の女の子が、倫理の教科書を片手に持って教室に来た。その光景に思わず、「なぜ倫理の教科書?」と聞かずにはいられなかった。彼女は大学で哲学を専攻しており、サルトルの研究をしている。一つのことを深く探究するあまり、視野が狭まってしまい全体像が見えなくなってきたので、倫理の教科書を使って全体像を俯瞰しようとしているのだという。ソクラテスやプラトンから始まり、日本思想やキリスト教の誕生あたりも触れているらしく、振り返る時間軸の大きさに、わたしは驚いてしまった。
教科書というのは、はっきり言って読みづらいが、研究を振り返る上で良いツールである。
わたしは日本史学専攻であったので、日本史学の視点から立って教科書について論じようと思う。高校日本史で最も一般的に使われるのは、山川出版から出されている『詳細日本史B』である。
しかしまあ、文章は読みづらい。教科書を読むより参考書を読む方がすんなり内容が入ってくる、という大学受験生は世間に多く存在すると思う。実際、わたしもその一人であった。
なぜ教科書が読みづらいのかというと、多くの研究史をベースに記述されているので、曖昧な表現が多いからである。日本史の研究というのは、それはもう多くの蓄積があり、多くの説が存在しており、言い切れることは少ない。断定しきれないのだ。
つまり、用語を覚えて点数を取るためには断定的ではっきりしている参考書の方が頭に入りやすいのでおすすめであるが、学問的な立場で言うならばやはり教科書を推したい。
倫理の教科書もまた同じで、哲学者の言いたいことを簡潔にまとめてあって、さらに前後の哲学者との繋がりも見えやすく、学問ベースに記述されているので、全体を俯瞰するのに最適であるという。一方、参考書はやはり過激なところがある。参考書に対して、「そうとは言い切れないのでは?」とつっこみたくなるときがあるよね、と彼女は話していた。
人はわかりやすいものを好む。わかりやすいもの、自分の理解の範疇で納得できるもの。だから断定的に書かれているものが良いとされる。
しかし、アカデミックな世界に足を突っ込むと、「そうとは言い切れないよね」という視点を持ってしまう。「〜かもしれないし、〜かもしれない」という曖昧さを含んだ揺らぎの視点を持つことになる。
そんな話をしている中で、ふいに彼女の口からコペルニクス的転回の話が出てきた。コペルニクス的転回とは、カントが自己の認識論上の立場を表わすのに用いた言葉である。これまで、認識は対象に依拠すると考えられていたが、カントはこの考え方を逆転させて、対象の認識は主観の構成によって初めて可能になるとし、この認識論上の立場の転回をコペルニクスによる天動説から地動説への転回にたとえたのである。
今まで「こうである」と断定されてきたものが、揺らぐときがある。発想を根本的に変えることによって、物事の新しい局面が切り開かれることがあるのだ。
また別の日、彼女と話している中で、千葉雅也さんの『勉強の哲学 来たるべきバカのために』がおすすめという話を聞き、さっそく読んだ。在学中は知らなかったが、我が母校である立命館大学の先生(!)とのこと。
まさに、学問をすると、ノリが悪くなる。
今までであれば、無意識的に「そうだよね」と言えていたことが、「そうとは言い切れないのではないか?」と思ってしまうようになる。
わりと人の意見を聞くとき、「そういう考え方もあるのか」と一旦受け入れてはいるものの、今までであれば同化していた考えが「わたしはこう考えるけれどな」と一旦切り分けて思うようになった。
今までであれば笑えていたことが笑えなくなることもあった。わざと空気を壊してまでも説明をしてしまうときもある。一緒にいる相手からしても、ノリ悪いなあ、と思われることはしばしばあるだろう。
それでもなお、わたしは揺らぎを大切に持っておきたい。「言い切れないのではないか」という視点を持っていたい。「〜かもしれない」という新たな可能性を見出していたい。
コペルニクスが地動説を完成させたように。
カントが認識の主客関係の転換を行ったように。
学問がもたらす自由の世界を享受していたいのだ。学問はどこまでも広く、開けている。
学問はいつでも、あなたの目の前に。さあ一緒に、ノリ悪くなろうではないか。
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