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第2回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~飼育ポットの中の超新蝶~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第二回



(コンダクティビティの打ち返し。
 ここダブルクォーテ。その値やと
 誰が決めるんや。
 アンダースコア書いて
 シグマの二十五度、
 入れ子になってるカッコで。
 目隠しでも内包でも、
 見えてるまんま
 鵜呑みする思いやがって。
 俺にはバレんと思たか)


デバッグ作業に没頭している、
芳武さんの頭から漏れている文字、
歩く歩く、
後ろに座っている僕の足元まで。

芳武さんの椅子の背もたれを
通り抜けていく
『バレんと思たか』の部分が、
少し忍び足気味で
右から左へと歩き切り、
地面へストンと零れ落ちていく。

その後はもう、
僕には解読できない
文字列達の行進の渦が
芳武さんの体を埋もれ去って行く。

だから僕は
彼の頭部が埋もれてしまう前に
声を掛ける。


「芳武さん、
 向こうでエコの企画チームが
 ビールの試飲やってましたよ」

同フロア内の最西端を見遣って
教えてあげる。
「お、おう」と夢から覚めたような
冴えない返事と共に僕を振り返り、
その動作とほぼ同時くらいに、
向こう側で賑わっている
試飲の人だかりにも目を遣る。
「ふんっ~」と気持ち良さそうに
背伸びをしながら、
椅子ごと回転させて
最西端をぼんやり見詰めている。


「向こう、なんか眩しない?
 事務所側の窓からの陽光が
 実験室まで届いてるねん。
 こっちの事務所側は全窓
 ブラインド下ろしてるから、
 余計明暗ついて見えよるな」

「ヨーコー」という聞き慣れない言葉に
一瞬戸惑いつつ、
芳武さんの視線の先を一緒に見詰める。
僕らの所属するデジタイズグループの
開発チームが、
企画をすっとばして出来上っていったのが
飼育ポットだった。
芳武さんをはじめとする
システムチームが居なければ、
そのポットの中でのみ
飼うことができる超新蝶は、
この世界に存在していない。
そのハード側である飼育ポットを
巧く利用できることに気付いたのが
エコグループの
企画チームにいる水樹さんだ。

飼育ポットにはある特殊な
室圧変動システムが内蔵されていて、
無論そのお陰で超新蝶は
羽ばたいたり発光したりできるのだけれど、
その容器側を改良して

「一日でお手軽に、
 週末我が家はビール工房」

を売り文句に、
短時間で作ることのできる
アルコール度数一パーセント未満の
ビールメーカーとして
商品化を目指している段階だ。

「堀戸くんも一緒に行こうよ」

陽光がレンズに反射して
淡藤色に光っていた芳武さんの眼鏡が、
こちらをちらと振り向く。
概して照り返しの無くなった
レンズの奥で彼の睫毛がふさっと開き、
僕を見透かす眼が現れた。

「もう飲みましたよ」
「……はあ!?
 なんでその時誘てくれへんねん。
 飲んでから誘う?ふつう」

判り易く肩から顔を斜め前方に落として
がっかりとして見せるので、
僕はますます
彼の観察者になり果てていく。

「教えただけで
 誘っては無いですよ。
 僕は紗英さんに誘われて行ったので」

次の反応を待つ。

「……なんで俺は誘われてないねん。
 堀戸のこんな近くにおるゆうのに」

唇を尖らせたまま
椅子からのっそり立ち上がりながら
「一人で飲みますかね、昼間っから」
とぼそりと言い置くと、
僕の顔をチラと見て眉毛を下げ、
切な顔を演出してみせる。

「温くてあまり
 美味しくはなかったですよ」

追い打ちを掛けるように、
ビールの囲みに向かう
芳武さんの背中に向かって
声を張ったが、

「わかっとるわい、ちんちん」

と、冴えない状態のことを
「ちんちん」と形容する
芳武ワードとともに、
鼻の穴を膨らませた顔をして
振り向くのだった。



十二時のチャイムが鳴り、
食堂へ向かう。
食堂は僕が働いている棟を出て
南東の方角に、
細い一般道路を挟んだ場所に位置する。
歩いて一、二分のところだ。

いつも蕎麦を注文する。
干しエビの乗っかった蕎麦だったり、
今日みたいに
黍魚子(きびなご)の干物と
セットになった蕎麦だったり、
蕎麦の種類が一週間のうちで
被らないようにはしている。

一番北側の窓際付近に着席してから
五分くらいで食べ終えると、
卓球をするために二階へ移動する。

二階に上がると
階段と直角に繋がった廊下に出る。
扉の閉まった倉庫のような部屋の前を
通り過ぎた奥には、
広くがらんとした部屋があり、
そこに卓球台が
二台広げて置いてあるのだが、
使うのは左っ側の一台のみで、
もう一台は傷だらけで
穴が目立つので
使い物にならないため
物置になってしまっている。

閉じて立ててある卓球台が
東側の奥に
邪魔にならないように避けてある。
床は木材で出来ていて、
あちこちに剥がれた跡や
傷や何かの染みが点在し、
築年数数十年の貫禄を披露している。

床にはアルミ製の灰皿が五つ程、
卓球台を囲むように
散らばって置いてあるのだが、
これは卓球の勝敗に
影響するように
気を配ってその都度
設置場所が変わる。
つまり、
打った側の球が運悪く
灰皿にホールインしてしまった場合、
「全取り」と言って、
打者側の持ち点を全て頂けるという
独自ルールが設けてあるためだ。
また、そこかしこに
昔開催されていたという
バザー用のぬいぐるみや
衣類が転がっていて、
そこに運悪く
球が乗っかってしまった場合は、
「一回休み」といって、
打者は試合を一戦だけ休んで
見送ることになっている。

ただ、今の時期は猛烈な暑さなので、
一回休みになった打者は
扇風機前で涼める権利を
同時に得られることになり、
多少喜びを露わにしてしまう。

北側と西側の窓は
ベランダになっていて、
春には食堂のぐるりを囲む桜を
真上から間近で見降ろすことができる。

北側の窓際に
平行に立っている黒板には、
吉岡さんと紗英さんと僕の名前が
書いてあり、
それぞれの名前の右横には
勝った数だけ正の字が続いている。
毎月点数が一番多かった者に
優勝数一点が与えられる。
黒板の上部右端に
それぞれの名前の頭文字が
ひらがなで小さく書いてあり、
そこに毎月優勝数を足していく。
「ほ」の横には正の字が一つに
端数が一本。
「さ」の横にはT字型の白線が
正の字になるのを待っている。
「よ」の横は空欄だ。

七月ももう少しで終わる。
最終日の三十一日は、
倍々デーと言って、
普段の加算点数×四倍の点数を
加算するというルールもある。



「チャオー」

紗英さんが
青いカバーを付けたマイラケットを手に
卓球室へ入って来た。
こんな蒸し風呂みたいな部屋に
置いてたら
ラバーが傷むからという理由で、
紗英さんはラケットを
毎日持ち帰っていた。


【YouTubeで見る】第2回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


【noteで読む】第1回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第3回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


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